天国からの階段

●宗教(レリギオ)

“千紫万紅あじさい回廊”。⁈、薫るキャッチフレーズに誘われハンドルを握る。奈良県桜井市、長谷寺。近くではお目に掛かれない“紫陽花繚乱”がお出迎え、薄暑も和らぐ。名物の登廊、途中「古今集・源氏物語等に詠まれた二本の杉」の案内板から強い磁力が。“これより右約百米”、迷う間もなく足が勝手に動き出す。そやそや、此処は玉鬘(たまかずら)と右近(うこん)が十八年振りに再会した古刹やった。(源氏物語 第22帖 玉鬘)

玉鬘は源氏十七歳の時に通いつめた夕顔の遺児。ところがその父親は頭中将、源氏の義兄。彼の正妻に脅迫された夕顔は隠遁するも、寄留先は図らずも源氏の乳母邸の隣。程なく好色源氏の蜘蛛の網に掛かり、その餌食に。逢瀬の場は喧騒な下町長屋、睦言も憚られ源氏は不使用の廃院へと色事の場を移動。ところが、その廃院内で夕顔が原因不明の突然死。心慌意乱、狼狽し右往左往。乳兄弟、惟光の機略を得て窮地を脱し、野辺送りを敢行。自分の名が一切出ぬよう事件を闇から闇へと葬ります。
何も知らぬ娘の玉鬘、及び夕顔の家人達は戻らぬ夕顔を待ち続けますが、玉鬘の乳母の夫が筑紫(福岡県)赴任を拝命、幼少の玉鬘を孤児に捨て置けず、共に下向。任期の五年後も帰京の時期を逸し、やがて玉鬘も妙齢に。深窓の麗人を匿うも石の物言う世の中、親指姫に登場するモグラのような田夫が執拗に求婚。耐え切れず家人共々鋒鋩の体で都へ逃避、逗留先も見付からず、観音の慈悲に縋る思いで初瀬参詣に。

もう一人の当事者、右近。彼女は急死の現場に随行していた夕顔の侍女、事の成行きで源氏方に身を寄せ、その妻、紫の上の侍女になりますが、自身の境涯を整理出来ず初瀬詣でへ。
こうして玉鬘と右近、二人は神機妙算の劇的な再会に至るのです。

さて“宗教”は英語でreligion、語源はラテン語のレリギオ(再び繋ぐ)です。元々繋がっていた二者が切り離され、それをもう一度繋ぐ、が“宗教”の本来の意味なのです。

●造り主との再結合

“宗教”という言葉に見るように、“神との再結合”が聖書の主題とも言えます。
今回は以下の箇所を辿りながら神との再結合について考えましょう。

イエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。
「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
せんか。(ルカの福音書19章1節~10節)

エリコ在住のザアカイは税金取立業者、その元締めでした。“取る”よりも“盗る”がその実態に近いですね。本人も“だまし取った”と告白しています。横領がまかり通るのも、ローマ帝国という強力な後ろ盾の故です。同胞目線は“売国奴”、誰もが彼を“罪人”と蔑みました。さて、この嫌われ者の家にイエスが来訪した、というのが今回のお話です。

●再会

「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」(ヨハネ10章3節)

「再会⁈」。変ですね。ザアカイは「どんな方か見ようとした」(ルカ19:3)わけですからイエスとは初対面のはず。ところがイエスは旧知でもあるかのように「ザアカイ」とその名を呼ばれました。先程の玉鬘と右近の場合、幼少で離京した玉鬘は右近のことは全く記憶に無く初対面。ところが右近の方は片時も頭の中から玉鬘が離れたことは無く、二十歳の玉鬘を瞬時に認識しました。ザアカイとイエスもこれと同様です。では何処で両者は会っていたのでしょうか。BC千年頃のイスラエルの王ダビデはこのように記しています。
「あなたこそ(中略)母の胎の内で私を組み立てられた方」(詩篇139篇13節)。
冒頭の“あなた”は天地万物の造物主。そしてイエスこそが人となられた造物主、神です。ザアカイだけでなく私達一人々々を母の胎内で組み立てられた御方。イエスの側からはその時が“初対面”、既に私達もイエスに知られているのですね。

さて「ザアカイ」の呼び掛けが人生の夜明けを告げる鶏鳴となりましたが、この一言にイエスは万感の思いを込めました。その心象風景を“千紫万紅”の絵筆で彩色してみましょう。

「ザアカイ、久しぶりだね。
知らなかったかい、おまえの名前を付けたのは私なんだよ。
おまえが生まれて八日目、割礼の前日だった。
おまえの父親が『名前はどうしましょう』って尋ねてきた。
私は答えた。『ザアカイにしなさい』。
知っているよね。”清い“という意味だ。
おまえは自分の名前を随分気に入って、誰彼となくその意味(清い)を自慢していたね。
でも、いつの頃からかその名前を口にしなくなった。背負ってしまったんだね。
私に語り掛けてくれることも次第に少なくなり、やがて、その糸は切れた。
でも、今、おまえにどうしても伝えておきたいことがある。
“ザアカイ”に込めたもう一つの意味、そう、もう一つの意味があるんだよ。
“ザアカイ”は“ゼカリヤ”(主は覚えておられる)の短縮形でもある。気付いたかい。
そう、私がおまえを忘れたことなど一分たりとも無かった。そうだろう。

『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない』(イザヤ49章15節)。

時は流れ、おまえは自分の足で歩み始めた。
『金持ちになって見返してやる』と家を出た。その時、自分の名前も置いていったんだね。
いつしかおまえはエリコではちょっとした有名人になっていた。“取税人のかしら”。
ある時、おまえは私の名を耳にした。
私の弟子に元同業者がいると知って、久々に目を輝かせたね。
数日後、おまえは多くの巡礼者に混じってエルサレムにやって来た。
遠くに神殿の頂が視野に入ると、おまえは正視を避け、目を落とした。
足はそのテンポを緩め、やがて、歩を進めることを拒んだ。
肩から力が抜け、膝が地に落ちた。目からは大粒の涙をとめどもなく流れた。
微かに唇が震え、消え入るような声で呟いたんだ。私にははっきり聞こえたよ。
『神様、罪人の私をあわれんでください』
ザアカイよ、覚えているだろう。私も泣いていたんだよ。
だから、
だから今日は私の方からおまえに会いにきたんだ。
ザアカイ、久しぶりだね。」

●清掃請負人

「今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)
それは嬉しい!でもちょっと待って、部屋を片付けますから。が接客する側の礼儀ですね。でもイエスは遮ります。「それは私の仕事、私が片付けなければ、あなたは私と関係ないことになります」。
「家」、プライベートな空間という視点から「心」と共通しますね。ところがこの“心”、内側は悪意、嫉み、自己中心といったカビが繁殖していませんか?、掃除機や雑巾で除去することも叶いません。環境汚染よりも厄介です。対策?ザアカイの事例から考察しましょう。
彼の家、“心”をその棲家とし玉座を占めていたのは不正の富と金銭欲。家族、友人そして自分自身でもこの侵入者を掃討出来ません。しかしイエスを迎えたザアカイは胸を張りました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)。何が起こったのでしょうか。心の清掃請負人イエスを迎えた、それだけです。けれども清掃をすれば雑巾が汚れます。ザアカイの心は清まりましたが、その汚れはイエスに転嫁しました。人々は言いました。「罪人のところに行って客となった」(7節)。イエスご自身が罪人呼ばわりされたのです。パウロは記します。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)

●天国からの階段

「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(ルカ15章4節)
「人の子は、失われた者を捜して救うために来た」(10節)
9月満潮時のモン・サン・ミッシェル、対岸との往来を拒む孤高の尖塔。伊映画「ラスト・コンサート」はこの威容を後景に佇む薄幸の少女、そのコントラストが印象的でした。幼い時に父と生き別れになった少女ステラは余命三ヵ月、「白血病」の診断を受けます。世を去る前に父に一目会いたいと僅かな手掛かりを掌中に家を出ます。紆余曲折を経て漸く辿り着いた巴里郊外、父の家。日没後の窓の向こうには暖かに灯された部屋、椅子に寛ぐ白髪混じりの紳士が見えます。間違いない、父です。「お父さん!」の声が口から出る、その時でした。カーテンに隠れていた娘が父に抱擁を求めて駆け寄ったのです。それを見たステラは背を向けてその場を立ち去ります。決して人の接近を許さない孤高の尖塔、その残像が窓の向こう父と重なります。最早、手の届かない所へと離れてしまった父娘の距離。
さて玉鬘。モグラ男からの逃避が契機となりましたが、ステラ同様、まだ見ぬ父への敬慕を胸中に抱いています。右近との邂逅、今は内大臣(元の頭中将)、正に雲上人へと昇りつめた父への足掛かりとなりましたが、再会は叶うのでしょうか。これはまた別の機会に。
そしてザアカイとイエス。聖書では捜す立場が逆方向になります。子ではなく親、親に相当するイエスが迷った子を捜して下さるのです。実はここが福音の肝です。私達が天国への階段を昇るのではなく、神が天からの階段を降りて来られたのです。
「アメイジング・グレース」という讃美歌が有ります。甘美なメロディーは皆様もご存じでしょう。道を外した奴隷船の船長ジョン・ニュートンの回心譚が詠われています。その一節をご紹介します。
「I once was lost, but now I’m found」(かつて俺は迷子になっちまったんだが、今見付けてもらったのさ)。迷子?まるで中国残留孤児、犠牲者のような言い草。進んで悪の巣窟へと堕ちたくせに“遺失の孤児”とは主客転倒。しかしイエスの一言は一切の反駁を封じました。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来た」(10節)。
“神からの離反”を深く内省する者の琴線に触れる至言です。とは言え“失われた者”の責務もあります。「急いで降りてきなさい」(5節)。そう、“登る”ではなく“降りる”ことです。

拙文を読了して下さった皆様、既にイエスはあなたを見付けておられます。「降りてきなさい」と今、あなたにも語り掛けておられるのではないでしょうか。
木の枝葉に身を隠し、上からイエスを見下ろす、そんな観客席はもう十分です。今、グラウンドに降りてきませんか。あなたの人生というトラック、肩を並べて一緒に歩きましょう。イエスは今、あなたよりも低い場所からあなたを招いておられるのです。