第12回 ソウルフード

ソウルフード

●おせち

「何やっ、おせちのチラシかいな、ポイッ」。ポストから新聞を取り出すのが朝一の日課。広告は一瞥もせん、、、はずが、その日に限って鮮やかな色彩に視線が屈折した。やれやれ、一体いつ頃からおせちは“売物”になったんや。また一つ、“合理化”の津波に無形文化財が呑まれた。そういや朝ドラで「おむすび」ゆうのが放映中らしい。一回も観てへんけど、“おむすび”ゆうタイトルが妙に気になる。おせち同様、本来“商品”とは異質の価値を持つソウルフードやと、この昭和のオッサンは信じとる。

●おむすび

“おむすび”は既に平安時代にその原型が見られます(源氏物語 第一段、桐壺)。光源氏、元服の際に「屯食」(とんじき:おこわを握ったもの)が饗応されました。他、“おむすび”に想起する小説が二つ。先ず太宰治著「斜陽」。戦後、“新生日本の夜明け”と入れ替わりに沈む貴族の様が描かれた作品。作中人物の科白、「おむすびがどうして美味しいし知っていますか。それは、人間の指で握りしめて作るからですよ」と。後の時代を席巻する合理化、人間喪失のうねりを予見した寸鉄。やがて“メイド イン ジャパン”が旧来の価値観を駆逐、その大木の枝先に開花する“コンビニオニギリ”。熱い御飯と奮闘して握られる“愛”の込もった“おむすび”など最早「歴史」に葬られました。“戦前”という駅に置き去りにされた旧貴族達の叫びに重なりますね。

もう一つは群ようこ著「かもめ食堂」。絵画のような盛り付け、絶妙に調味されたグルメに違和感を覚えた主人公サチエは、“心を届ける料理”をとフィンランド、ヘルシンキへと旅立ちます。渡航の朝、父がサチエに手渡したのは父自らが握った“おにぎり”。愛情表現が不得手な父は“おにぎり”に親心を託したのです。現地でサチエが開店した「かもめ食堂」、中々客足が伸びません。奮闘するサチエの姿に、一人、二人と来客が増えるも彼女が勧める“おにぎり”は誰も食べてくれません。ある日、仏頂面をしたリーサという老婦人が店に現れました。コスケンコルヴァというお酒を注文したかと思うと、一気に飲み干しそのまま後ろに転倒。大変!、と居合わせた常連客達とリーサを家まで送ってあげました。ベッドに寝かせたところ、ポツリポツリと身の上話を始めました。永年連れ添った夫が浮気、家を出ていったらしい。飲めないお酒を飲んだのは、その銘柄が夫の愛飲酒だったからという。心を込めた介抱が奏功したのかリーサは店の常連となりました。そして最終章、ようやく「心の伝わるおにぎり」が認められる時が来ました。リーサがこう言ったのです。「そうね、おいしい・・・ような気がする。うん。おいしいわ。あなたが私のことを思って作ってくれたんですものね」。初めて心が届いた瞬間でした。

●湖畔の朝食

「おにぎりは日本人のソウルフード」論には賛否も有るでしょう。さて、イエスの時代、特にその弟子達にとってソウルフードって何だったのでしょう。

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』彼らは言った。『私たちもいっしょに行きましょう。』彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ。食べる物がありませんね。』彼らは答えた。『はい。ありません。』イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。『主です。』すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。『あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。』シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。イエスは彼らに言われた。『さあ来て、朝の食事をしなさい。』弟子たちは主であることを知っていたので、だれも『あなたはどなたですか』とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である 。彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」(ヨハネ福音書21章1節~15節)。

今回の登場人物は漁師達。そう、彼等のソウルフードはガリラヤ湖の魚、でした。彼等は夜通し働きましたが、一匹も捕れません。「舟の右側に網をおろしなさい」とのキリストの指示にまさかの大漁。でもこの大漁、別の意味での“ソウルフード”ともなりました。

●自然界の主

大漁⁈、そんなアホな、と思われるかも知れません。熟練の漁師が夜通し働き不漁だったのが、イエスの一言で一転、大漁となったのですから。けれども、「そんなアホな」は今や日常茶飯事。10月12日、米国スペースXは大型宇宙船「スターシップ」の無人飛行試験を実施し、発射場着地の実験が成功。驚きますが疑いはしません。自然や物質の法則を熟知した設計者が間違い無く製作すれば、プログラムされた通りに物体は動くのだろう、と納得するからです。ところが、その自然、物質の法則の創造者は神だと聖書は語ります。「はじめに神が天と地を創造された」(創1:1)と聖書は書き出します。天体、動植物、そして人間も神様の被造物です。ガリラヤ湖の魚も神様の支配下です。漁師達は「既に造られたゲーム」のプレイヤーに過ぎません。私達も同様、設計者である方にとって不可能は無いのです。

●心のチキンスープ

毎年の日本列島を襲う大地震、次は我が身か、と震撼します。阪神淡路大震災(1995年)で弟を亡くした歌手の森祐理さんは被災者を励まそうと、被災地で歌うようになりました。その森さんは自著にこう記しています。
「正直、被災地コンサートを始めた当初は、歌など歌うよりも、食料を運んだり、作業の手伝いをしたりしたほうが役に立つのでは、との葛藤もあった。救援物資も運ばないで、申し訳なく思いながら歌っていたときである。一人のおばさんが私のところに来て、こんな言葉を言ってくれたのだ。
『あんたの歌聴いて、ようやく何か食べよういう気になったわ。水も食料も山ほど積んであるけど、何も食欲なかった。ほんまにおおきに。』
うれしかった。そしてうれしいと同時に、生きるには水や食料だけではダメなのだと気づかされた。目の前にある食料に手を伸ばし、それを食べようとするエネルギー、生きる力が必要なのだと感じた。それからである。何かに突き動かされるように被災地で歌い始めたのは。瓦礫の中、炊き出しの中、仮設住宅、歌を聴きながら、「心に水が飲めたようやわ」と涙してくださった方々の姿は忘れられない。」
私達は失って気付くことが有りますね。被災者の一人は「心に水が飲めた」と訴えました。胃が食物を必要とするように“心”も「栄養」を渇望します。キリストは言われました。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4章4節)。

その栄養とは「神のことば」だと聖書は語ります。
さて、キリストの弟子達。彼等が摂取したのはパンと魚だけだったのでしょうか。

●先廻りの愛

「彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた」(9節)。

有難いですね、疲れた後すぐに食事にあり付けるのは。成果が無ければ猶更です。自ら台所に立つ気力は有りません。僕も独身時代はよく外食で済ませました。弟子達が漁を終えて陸に上がると、既に朝食の支度が整っていました。彼らの徒労の間、イエスは食事の準備中だったという絵は何だか、心温まりますね。イエスは想い巡らせます。「疲れているだろうなあ。こんな時は郷土料理に限る。塩を少々多めに。そうそう水も要るよな」。母が子の好物をよく知るように、そして栄養や健康を配慮するようにイエスもそうされました。瞼裏に映るのは心身共に疲弊し切った弟子達の顔です。そう弟子達、特にペテロは体よりも心が疲れていました。イエス逮捕後、後を追うまでは良かったのですが、敵対勢力に孤立無援、「おまえも弟子ではないのか」との嫌疑に「そんな人は知らない」と三度も言ってしまったからです。「牢であろうと、死であろうと、覚悟は出来ております」(ルカ22章33節)なんてとんでもない。この俺こそがイエスを十字架に追いやった張本人だったのだと自己嫌悪に沈むペテロ。実はここでも先廻りの愛が示されていたのです。
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)と、最後の晩餐の席上イエスはペテロに予め語っていたのです。
この先廻りの愛がペテロの自死を阻み、覚醒と悔い改めに導きました。けれども立ち直るには更なる「チキンスープ」が必要です。

「わたしの小羊を飼いなさい(Feed)」(15節)。

“わたしの小羊”とは他の弟子達、また後に信仰に入る人々を含みます。キリストの最も大切な宝物です。彼らに“食事を供する(みことばを語る)”という至高の使命が与えられました。この重責がペテロへの“チキンスープ”となったのです。実はペテロは以前から「弟子達のリーダーになりたい」との野心を抱いていましたが、自信に満ちたペテロが描いた“リーダー像”はキリストの描く像とは乖離していました。その像が今、重なったのです。「自分こそイエスを十字架に追いやった罪人だ」との自覚、これこそが弱い羊の目線にまで己を低く出来る資質です。「わたしの小羊を飼いなさい」との信任。イエスの無条件の愛と赦しがペテロの傷んだ心に流れ込んだ瞬間でもありました。「わたしが来たのは罪人を招くためだと何度も言ったではないか。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない、とも言ったではないか。今漸く自分のこととしてわたしのことばを受け入れてくれたんだね。この“いのちのことば”、これからはお前がわたしの弟子達に伝えるのだ」と。

握った人と食べる人を結ぶ“おむすび”。そしてこの朝食はイエスと弟子達を“結ぶ”いのちの糧となりました。彼らが受け取った“愛のメッセージ”は今、この拙文を呼んで下さったあなたへと結ぶ“おむすび”ともなればと願っています。
「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)。

是非、救い主キリストを食し(信じて)造り主である神と繋がる方となられることを心よりお勧め致します。

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