No.06 春(スプリング)|道しるべ
春(スプリング)|道しるべ
「シジュウカラですよ」との柔らかな声に振り返った。陽光零れる山中、佇んで緑葉を仰いでいた折、たまたま通りがかった女性が声を掛けてくれたのだ。「いやぁ、鳥の鳴き声ってウグイスとカラスぐらいしか分からないんですよ」と私。「カラスにも主には“ハシブト”と“ハシボソ”がいて鳴き声も夫々違うんですよ」と詳しい。いや、これって常識なのかな。料理人って超微量の“隠し味”でも判別しますよね。同じように、耳にも特殊能力の備わった方っておられるのでしょうか。例えばミュージシャン。彼らは“耳コピ”なる秘技を駆使して自らのレパートリーを広げますが、凡人からすれば“奇術”にすら映ります。かのモーツァルトはオーケストラの楽曲を聞いて譜面に再現したのですから“神童”というのも首肯出来ますね。
でも鳥や音楽ではなく、同じ人間同士なのに話が聞き取れないってのは残念ですね。例えばTV等から流れてくる和英混淆の流行歌。或いは隔世代の方の会話。耳に届く単語が自分の「語彙集」に検索出来ない。あっても意味が違うらしい。「あの人キレる」などがその一例。ジェネレーションギャップというのでしょうか。同じ空間に雑居しながら周波数が微妙にズレている違和感。
さて、聖書の舞台、二千年前の中東ですから超時空の世界ですが、当時の人々の間でも“ズレ”が存在していたようです。
「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、『わたしに水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そのサマリアの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリア人の女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』その女は言った。『主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。』イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』彼女はイエスに言った。『主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』(ヨハネ4章7節~15節)。
どうも嚙み合っていないようですね。ユダヤ人とサマリア人、男性と女性という差異を超えて、神と人間という異次元が交錯しているようです。「喉が渇いたので水が飲みたい」という普遍的な共通語でイエスは女性との会話の糸口を掴みます。しかしイエスの真意は「喉を潤す水」ではなく「心を潤す水」、しかも滾々と湧き上がる泉を与えよう、ということでした。言われて得心。喉を潤す飲料水なら自販機で買えますが、「心のチキンスープ」は何処に求めれば良いのでしょうか。趣味に、恋愛に、仕事に、あらゆる方向に目を向けても、結局それらは現実逃避の“映画館”に過ぎないのです。「これで満足」と言える終着駅が有りません。そのような私たちにイエスは語られます。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」。
雪が溶け、小川となって野花に瑞々しい彩を与えるように、私たちもこの泉を宿すことが出来ますよ、とイエスは仰るのです。菜の花、桜、そしてツツジ、夫々が神様の絵筆に描かれてその衣裳を飾っています。シジュウカラ、そしてウグイスも個性豊かな声色でその絵画のBGMを務めています。
「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(マルコ13章16節)
とイエスは語られました。自然に目を向けながら、その背後にいらっしゃる神様の語り掛けにも傾聴してみて下さい。そして“心の泉”であるキリストに満たされて、春の原風景に溶け込む、そんな季節を満喫したいですね。