第1回 光源氏の暗闇
光源氏の暗闇
「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8:12)
●輝く人への憧憬
もうひと昔前です。アンジェラ・アキさんの歌う「輝く人」が若年層の心を鷲摑みした頃が有りましたね。輝く人、なりたいですよね。昨年、大谷翔平選手の連爆する花火のようなビッグニュースの波に日本中が沸き上がりました。正に輝く星のような人ですね。人生に一度でいい、そんな舞台に屹立する瞬間が私にも訪れていいんじゃないか、そう思いませんか。
●紫式部の描いた貴公子
「光る君へ」が放映中です。幼少よりその輝くような美しさの故、周囲から「光る君」と呼ばれて育ちました。その輝きは外観の容姿に留まらず、和歌、奏楽、絵画、舞踊等々に及び、宮中でも憧憬の的となります。他方、自制心の欠如は色事師の例に漏れず次から次へと女性関係を広げていきます。当時は通い婚で複数の妻を持つことも普通でした。政敵筋の女性(朧月夜)との関係が露見し須磨、明石への退去を余儀なくされるという時期もありましたが、往々にしてその処世術を駆使して宮中での地位を揺るぎないものへと上り詰めていきます。壮年にしてその輝きは衰えを見せません。
●忍び寄る罠
“絶頂”は永続しないのが世の常。その退潮は願ってもない吉報から始まったのです。朱雀院がその第三皇女、女三宮を正妻として迎えて欲しいと申し入れてきました。内親王を降嫁させる、というのです。源氏には紫の上という正妻の他、賢妻の明石の君、家庭的な良妻、花散里もいますが、それなりに平穏な関係を保持していたのです。しかし、秘めた色情に抗うことが出来ず、朱雀院の申し入れを受け入れてしまいます。そして、この浅断が大きな波紋を広げ、周囲の多くの人をその渦中へ呑み込んでいくのです。
まずは紫の上。これまでの源氏の浮気心には随分と悩まされてきましたが、それでも源氏を信じてきました。強力なライバル、明石の君が現れた時も彼女の娘(後の明石の中宮)を養育するということで心の均衡を保ちました。しかし、女三宮の降嫁はこの均衡の糸を弾きました。「朱雀院の申し入れ故、断り切れなかった」という極めて皮相的な弁明に源氏の本性を見たのです。哀しみよりも虚しさに覆われ、以降、落飾(出家)を求めるようになります。最早、源氏に己が心の置き場を見出すことなく最期を迎えます。
そして朱雀院。源氏は朱雀院の期待も踏み躙りました。稚拙な女三宮を軽んじ大切には扱わなかったのです。落胆した院は後々に女三宮に落飾をさせ、源氏の元から離します。
当の女三宮。幼さの故か源氏からは形式的な寵愛しか受けることが出来ず結局は若年にして出家することとなります。もし源氏に降嫁することがなかったら、全く違った人生が開けたはずですが、朱雀院の溺愛と源氏の好色という男たちの勝手な情によって人生が狂わされてしまいました。
●因果の胤(たね)
実は女三宮が落飾することに至るにはある出来事が有ったのです。これが後続する種々の不幸の引き金となるのです。実は女三宮が降嫁する以前より女三宮に密かに好意を寄せていた人物がいました。柏木の衛門の督(以降、柏木)という男です。降嫁後の女三宮が大切にされていないことを知ると、余計に無念な思いが増幅し、機を窺って無理やりに女三宮と同衾(性交)してしまいます。その後、女三宮が懐妊する(出生後、薫の君)のですが、柏木はそれが自分の胤(たね)であることに気付きます。源氏も当初は大して疑念は抱いていなかったのですが、決定的な証拠(柏木から女三宮への文)を見付けてしまい愕然と立ちすくみます。
プライドの高い源氏のとって耐えがたい屈辱です。ところが因果の小車か、この場面に既視感が蘇ってくるのです。ずっと封印してきた自分の過ちがブーメランのように襲い掛かってきた、抗えない運命と思わざるを得ませんでした。実は源氏は実父、桐壺帝の後妻である藤壺中宮と密かな関係を持ち、男子を産ませてしまいました。この男子が後の冷泉帝となるのですから世を欺く大罪です。立場が入れ替わり今度は自分が裏切られる側となったのです。「これは自分への裁きなのか?」。柏木を裁くことも、赦すことも出来ず、ただこの怒り、悲しみを自分で呑み込むしか無かったのです。
●罪のないものが石を投げよ
さて、聖書の中に次のような箇所があります。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。
それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8章1節~12節)
イエス様を貶めようとする当時の支配者達は情事の現場を押さえられた婦人を差し出し、断罪するのか、赦すのかと詰問します。何方に転んでもイエス様の立場は悪くなります。「断罪せよ」と答えれば、「ほう、愛を説くあんたがこの哀れな女に石を投げろ、と言うのかね」と哄笑されます。「赦せ」と答えたら、「へえ~っ、こりゃたまげたね、あんたはモーセの教えを蔑ろにするのだな」とさらなる追求が待っています。ところがイエス様の一言に彼等は完全に出鼻を挫かれました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。挑発者達は驚愕と共に心を抉(えぐ)られました。この放たれた直球をまともに受け止めることの出来る者は誰もいません。一人、また一人とその場に背を向けました。
●まことの光、キリスト
そして誰もいなくなった、のですがこの罪が「水に流された」訳ではありません。聖書は言います。「神は、罪を知らない方(キリスト)を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5章21節)。誰も他者を断罪することは出来ません。たた罪の無いキリストだけが私たちを裁くことがおできになります。しかしそのキリストは私たちを裁くのではなく、その罪を引き受けて十字架に架かって下さったというのです。
「光る君」と呼ばれた源氏、その薄陽は最愛の紫の上の心すら温めることが出来ず、彼女は出家を願いつつ辞世します。その後、源氏もまた蝋燭の灯が消えるように雲隠れ(死去)するのです。
光源氏のモデルとなった人物は藤原道長、紫式部のパトロンですね。栄華を極めた彼はこのような和歌を詠みました。
この世をば 我が世とぞ思う 望月の
欠けたることも なしと思へば
暗闇を煌々と照らす望月(満月)どころか自身が糖尿病を発症し、亡くなる頃には視力も衰えたとのことです。自らが光を失っていたとは皮肉な話ですね。
「明けまして」との挨拶で始まる新年ですが、明けても光の見えない今年の現況。皆様もまことの光であられるイエス様の言葉に傾聴してみませんか。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書8章12節)。
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