第7回 人形の家

人形の家

●山で囲まれた鳥籠

「おもろな~いっ」、パチン。新年早々の拙宅での儀式。そう、例年「大河ドラマ」の観客席に腰を下ろすのも大寒まで、耐えきれずに離席。ところが、異変。「光る君へ」、今年は客席にまだ二人が残っている。実は第一話のある場面から目が釘付けになってしまった。逃げた雀を追ってきたまひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)が出会う絵面に脳内で検索エンジン全開!「これって⁈……」そう、「第五帖 若紫」。光源氏が当時十歳程だった若紫(後の紫の上)と初めて出会う場面のオマージュ!“出会い”といっても源氏が柴垣から一方的に覗き見しているだけ。そこに尼君が現れ若紫を窘めます。「雀を籠に入れておいたりすることは仏様のお喜びにならないことだと私はいつも言っているのに」。「光る君へ」では三郎が「鳥を鳥籠で飼うことが間違いだ。自在に空を飛んでこそ鳥だ」と諭します。また鳥に関連しては謎の散楽師、直秀がまひろに語った科白がカノンのように追奏しますね。「都は山で囲まれた鳥籠」。今後、まひろがどう羽ばたくのか興味を唆る展開です。

●翼を折られた鳥

ところが「源氏物語」の若紫。籠から雀を逃がした少女が、まさかの運命。いや、人生は皮肉ですね。前述のように若紫は源氏の“覗き見”から物語に登場します。燦々と降り注ぐ陽光を浴びて駆け巡る無垢な少女。方や“夜の帝王”、光源氏。暗闇に慣れた眼に飛び込んで来た情景はあまりにも眩すぎました。「十歳くらいだろうか、白い下着に山吹襲の着慣れた表着を着て走ってきた女童がいた」。雀を追った少女、自らが猛禽スコープの標的に嵌ったことに気付きません。獲物を見付けた野獣の行動はただ一つ。源氏は少女の世話をしていた祖母の死を好機と捉え、闇夜、強引に掠取し二条院の西の対に連れ込みます、そう誘拐です。かねてより様々な女性遍歴を繰り返しながらも満たされなかった源氏、「ならば自分の思い通りに少女を育て、理想の女性にしよう」という狂気じみた願望を抱いており、千載一遇のチャンス、と決行したのです。スタブローギン(ドストエフスキー著「悪霊」の登場人物)もかくや、と思える蛮行。小鳥の翼を捥取り、予め準備した鳥籠へと閉じ込めました。籠中には人形等が備えられ、これらで遊ばせます。しかし、源氏こそが姫君を人形にして遊んでいるという実相が二重写しに見えます。かつて「翼を下さい」という歌が流行りました。「この大空に翼を広げ飛んで行きたい」、私達は無限に広がる大空に憧憬しますね。「自在に空を飛んでこそ鳥だ」。ドラマで語られた三郎の科白が悲しく中有に迷います。
さて、聖書の神は私達を檻に閉じ込める方ではなく、自由の翼を与えて下さる方だと記されています。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ40章31節)。

鷲は自分で翼をバタつかせるのではなく、じっと風の流れを待ち、気流が来たらそれに自分の翼を合わせるそうです。私達も“主を待つ”ことが大切だと教えています。

●足枷をはめられた囚人

それから五年、源氏は若紫(以降、紫の上)と男女の契り無く閨を共にします。幼い紫の上にとって源氏は唯一の親代わり、頼もしい兄のはずでした。ところが源氏は嫡妻、葵の上が亡くなると、喪も明けぬうちに紫の上と新枕を交わすのです。その事実を示唆する一文に、作者は傷付いた姫君の深淵を封じました。「男君とく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり」<源氏が先に起きたのに、紫の上がいっこうに起きてこない朝がある>(第九帖 葵)。「起きてこない朝」、その静寂だけが語る秘事。沈黙の闇に響く紫の上の阿鼻叫喚。かつて闊達に走り回った少女は羽(体)を、そして今、床から立ち上がる足(心)までも失ったのです。心と体は密に連動しているのです。
加齢と共に足腰の弱さを痛感する私達ですが前述のように「立ち上がる、歩く」ことは単に体の機能の問題ではなく密接に繋がる心の問題でもあるのです。
さて、聖書には“歩けなかった人”が“歩いた”話が記されています。

「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おとり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」(使徒3章1節~10節)。

皆さんが健常者、そして若年の方であるなら、「歩く」を意識することも有りませんね。しかし今、自分が人生という長い道程を歩む旅人と、その視座を変えると上述の聖書箇所は私達に深い示唆を与えるものとなります。「歩く」について三つの観点から考えてみましょう。
1.目的地
意味も無く歩く人はいません。屋内であってもトイレ、浴室、向かう先には必ず目的地があるはずです。とすると「人生」の道程にもゴールが見えていなければ明日への一歩を踏み出すことが出来ません。上記の男性は「宮」、すなわち神の住まいへと向かって歩き出しました。後期印象派の画家ポール・ゴーギャンは《我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか》という表題の絵を描きました。皮肉なことに画家は自らの問いにその答えを見出せなかったようですが、聖書は語ります。人生の目的地は神様である、と。

《我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか》
ポール・ゴーギャン(Wikipediaより)

2.道
目的地が定まれば次は「道」です。彼は「美しの門」に置かれていましたが、その門が宮への道を示す道標となりました。そしてイエス様はご自身を“門”だと仰います。
「わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます」(ヨハネ10章9節)。
3.原動力
次に必要なのは立ち上がる力、足を一歩踏み出すエネルギーです。ペテロはこの男性に「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。立ち上がった彼は歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ歩いたのです。切り花が水を得て蘇るように、人は命の源と繋がった時に生気を放つのです。
イエス様は言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父(神)のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14章6節)。

●意志を封殺された人形

やがて紫の上は実質上の嫡妻“格”となります。“格”と言うのも変ですが、宮中社会でのお披露目となる露顕(ところあらわし)を挙げおらず公的な認知が無かったのです。その為か、朱雀院が女三宮の降嫁を源氏に打診して来ました。内親王を迎えれば、嫡妻の地位が脅かされることは必須です。しかし不惑も過ぎたはずの夫はこれを快諾するのです。「落ち着いた余生」を楽しみにしていた紫の上の失望落胆は測り知れません。「自分の心を解放するには……」、今まで淡い輪郭に過ぎなかった「出家」の二文字が俄かに現実味を帯びてきました。意を決して源氏に切り出します。
「これからはこうした成り行きまかせの暮らしではなく、心静かに仏のお勤めをしたいと思います。世の中はこうしたものだという見極めもついた年齢にもなりました。どうぞそのようにすることをお許し下さい」。ところが源氏は猛反対、取り付く島も有りません。「とんでもなくひどい言いようではないか。私だって出家したいと深く願っているが、そうすればあとに残された貴方が寂しい思いをし、今までとは打って変わった暮らしになるだろうと心配でならず、だからこうしているのだ」。出家されては同衾出来ない、それが嫌だという本音を覆い隠し、自分が出家しないのは貴方を心配しているからだと、負い目まで押し付ける、実に勝手極まりない虚言、ここに至って源氏は紫の上の意志(宗教心)すらも封殺してしまいました。

●自由意志を尊重する神の愛

さて、聖書は「神は愛である」と教えます。神の愛は人を束縛から解放し、自由意志を尊重するものです。イエス様の語られた譬話を見てみましょう。

「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』」(ルカの福音書15章11節~24節)

「お人好しのお父さん、結果は火を見るよりも明らか」ですよね。これは「何故、神様はエデンの園に善悪の知識の木を置いたのか」の疑問とも通底します。しかし、ここにこそ神様ならではのご性質が垣間見えるのです。人の自由を何よりも尊重され、意志を持たない人形にではなく、自ら選び、行動する存在として人を造られました。神の元を離れた人間が、自らの判断でもう一度戻って来る、それを無条件で迎えるのが神様の愛なのです。

●人形の家

H・イプセン作「人形の家」、実話を参考に作られた作品のようです。「私はあなたの人形妻だったのよ」と激白する妻ノラは夫ヘルメルを糾弾します。「あなたは私を愛していたんじゃないわ。ただかわいいとか何とか言って、面白がっていただけよ」。最後、彼女が、“人形の家”の扉を閉めて出ていくところで物語は幕を下ろします。
さて、紫の上、魂が自分の亡骸を去るときに漸く“人形の家”の扉を閉め、出て行くことが出来ました。源氏は紫の上から体、心、そして命までも奪い尽くしました。有島武郎著「惜しみなく愛は奪う」を自ら体現したのです。
しかし聖書は「愛は与える」と宣言するのです。

「神は、実に、そのひとり子(イエス様)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)。

“愛”という言葉、あまりにも軽薄に、塵埃のように空中を舞う昨今。聖書の語る愛、イエス・キリストによって示された“与える愛”に触れてみませんか。

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