第9回 目は心の窓
目は心の窓
●鳴かぬ蛍
「おおっ、ホタルや」、夕暮れ時、散歩道を遮る仄光が宙を舞う。賑やかな花火もええけど無音の幽光漂う寂寥感も夏の風物詩や。
さて、“蛍”と言えば源氏物語、玉鬘求婚譚(第25 蛍)。五月雨(梅雨)の頃、玉鬘目当てに六条院を来訪した源氏の異母弟、兵部卿宮。プロ並みの演出家、源氏は此処でも奸智を発揮、予め収集しておいた蛍を几帳内に放ち、その幻想的な蛍火の乱舞に玉鬘の美麗を浮かび上がらせたのです。その妖艶に酔う兵部卿宮、懸想を和歌に乗せますが、玉鬘の返歌は容易に捕まらぬ蛍の如し。
「鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは」
<鳴く声も聞こえない蛍の光でさえ、人が消せるものではない。まして私の燃える恋慕の炎はどうして消せるであろうか>(兵部卿宮)
「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ言うよりまさる思ひなるらめ」
<そうかしら、声も出さずにひたすら身を焦がす蛍のほうが、声高に仰る貴殿より、深い思いを抱いているものですよ>(玉鬘)
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」(都々逸)
さて玉鬘、前稿でも触れましたが初瀬参詣の際、椿市で右近と相宿、18年振りの再会を果たします。吉報に舞立つ源氏は玉鬘を六条院に迎えます。本来なら実父、内大臣との父娘対面を取り計らうのが道理、それをせず世間には自分が実父と誤認させ、玉鬘に群がる玉石混淆の貴公子達の恋情を弄び、挙句には自らも劣情を滾らせる痴態を演じるのです。
●言はで思ふぞ
さて、「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ」。玉鬘の返歌に⁈。既に清少納言の枕草子が貴族社会に人口膾炙、その一句を彷彿させます。藤原定子(一条帝中宮)が長期に亘る里居の清少納言に届けた“山吹の花弁”に書かれた「言はで思ふぞ」がそれ。風流に通暁する才媛間に秘めた珠玉の一句は「古今和歌六帖」収載歌からの引用です。
「心には下ゆく水のわきかへり言はで思うぞ言ふにまされる」
<私の心は地表には見えない地下湧水のよう。口には出さないけれど、貴方を想っております。その想いは口に出して言うよりもずっと勝っているのです>
また“山吹の花”も風流に色香を添える“隠味”として一役買っております。
「山吹の花色衣ぬしや誰問へど答へずくちなしにして」(古今集)
<山吹の花色の衣に、持主は誰かと問うても答えません。梔子(口無し)だからです>。
山吹色の染料は梔子(くちなし)、その“口無し”を「言はで」に掛けています。
玉鬘の「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ」、と定子の「言はで思ふぞ」、似ていませんか?
さて、定子と清少納言は固い絆で結ばれた二人、ところが当時、清少納言は長期の里居、そこに届いた「言はで思ふぞ」の文。背景が気になりますね。
清少納言、元々は藤原道隆(定子の実父)が招聘した侍女(女房)。蕾に隠れた彼女の才を大きく開花させたのは定子とその主催サロンです。後に枕草子となる料紙も定子からの下賜。才女、清少納言の評判は宮中にも広く浸透しますが、やがてサロンの栄華も落日を迎えます。後ろ盾、藤原道隆の病没、長徳の変での伊周、隆家(定子の兄弟達)の失脚は宮中地図を大きく塗り替えました。窮地に陥った定子は落飾(出家)しますが、変わらぬ一条天皇の愛執は却って定子を孤立させます。四面楚歌、今こそ支えの友を。そこに弱り目に祟り目、その頼りの清少納言が宮を去ったのです。理由は「政敵、道長側と内通している」との誹謗が宮中を席巻したことでした。これは定子を心理的にも追い詰める藤原道長の謀略だったのかも知れません。
周囲が清少納言を忌避する中、定子だけは彼女を信じていました。その時届いたのが「言はで思ふぞ」の一葉。定子は身を焦がす蛍、言葉に表せない心情を一句に込めました。「貴女が私を裏切ることなど有るはずがない。中傷に心折れ、里に身を寄せているだけだね。私も傷付いたからその心痛がよく分かる。でも私には帰る里もない。だから立ち直ったら私の所に必ず帰って来ておくれ。お前が私の里なのだから」と。
清少納言はこの言葉に奮い立ち、もう一度、定子に祗候する決心を固めるのです。
●主の眼差し
「言はで思ふぞ」に沈思、“言葉”にならない“眼差し”で“心”を伝えた御方のことを思い出しました。今回はその場面を皆様にご紹介したいと思います。
「『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』
<中略>
イエスがまだ話をしておられるとき、群集がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、『ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか』と言われた。イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、『主よ。剣で撃ちましょうか』と言った。そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは、『やめなさい。それまで』と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。 そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。』彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいました。』ところが、ペテロはそれを打ち消して、『いいえ、私はあの人を知りません』と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、『あなたも、彼らの仲間だ』と言った。しかしペテロは、『いや、違います』と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、『確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから』と言い張った。しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた」。
(ルカ22章31節~62節)
●私がいる
蝉の啼く8月、戦禍を省みる時節ですね。広島市、平和記念公園に原爆死没者慰霊碑が有ります。石碑には自らが被爆者でもあった雑賀忠義さんの揮毫文が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
東京裁判判事の一人、インドのパール氏はこう評しました。「原爆を落としたのは日本人ではないのに、碑文は表現が曖昧だ」。今でも「過ち」の主語云々の論議が絶えません。しかし、自らが当事者意識を持たない限り、罹災者の遺訓とはならない、碑文を読む貴方も当事者、との雑賀さんの声が耳朶に響きます。
さて、聖書に戻って、此処でも“主語”云々。誰がイエスを十字架に付けたのか?その問いに対峙する恰好の場面です。ペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と胸を張りますが綸言汗の如し、僅か数時間後、その同じ口が「いいえ、私はあの人を知りません」と唾棄しました。「皆さんと同じ、あのイエスという罪人を裁く側の人間ですよ!」と完全に周囲に擬態したのです。鶏鳴が空に響き、振り向く主の眼差し。ペテロは愕然としました。「イエスの敵は他でもない、この俺だったんだ!」
瞬きの詩人、水野源三(※)さんの詩が頭を過ります。
「私がいる」 水野源三
ナザレのイエスを
十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる
※水野源三さんは、9歳で赤痢を発症、高熱から脳性麻痺を罹患。目と耳以外の機能を喪失。
病床から動けない中、キリスト信仰へと導かれ、母の助けによって50音字表を瞬きで合図、心情を詩に乗せた。後に「瞬きの詩人」と呼ばれるようになる。
●開眼
「彼(ペテロ)は、外に出て、激しく泣」(62節)きました。しかしこの涙こそが、ペテロの眼の曇りを洗い流す泉となったのです。洗われた、澄んだ眼は何を見たのでしょうか。
①自分の本姿
「主が振り向いてペテロを見つめられた」。その眼差しは今までペテロの心に温めてきた主の言葉の醸成樽を開栓する栓抜きとなりました。湧水の如く様々な主の言葉が甦って来たのです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(ルカ5章31節~32節)。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)。どれもが自分に向けられた言葉だったのか、「自分こそが失われた罪人」というキーワードがバラバラだった主の言葉を繋ぐ鎖となりました。
②神の姿
水面に映った自分の姿にアヒルの子は自分が白鳥であったとを知りました。水面が自分の本姿を映す鏡だとすれば、イエスの眼差しはペテロの本当の姿を映す鏡と言えます。ところが同時にこの眼差しは神の姿を映すスクリーンでもあるのです。17世紀の数学者ブレーズ・パスカルはその著「パンセ」にこう記しました。「我々はイエス・キリストによってのみ神を知る。のみならず、またイエス・キリストによってのみ我々自身を知る」。もし、イエスの瞳に“怒り”を見たならペテロは黙ってその舞台を降りただけでしょう。しかしペテロの見た主の瞳には、“愛”と“赦し”が映っていたのです。主は最初から全てをご存じでした。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。自分の回復を事前に祈って下さった、神とはそういう方。逮捕、連行、そして弟子の裏切り、相継ぐ陥穽の逆境下、キリストの愛は微動だにしなかったのです。
戦後79年、糸満市、広島市、長崎市、何れの地も語り部が激減し「平和」を叫ぶ式典も風化が懸念されます。しかし聖書は今なお私達に語ります。「『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』」(イザヤ40章6節~8節)。」
ペテロだけでは有りません。人は変わります。星霜を経て変わらない神の愛、神の言葉、今こそ立ち止まって傾聴してみませんか。
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