第2回 幻を思慕する光源氏

幻を思慕する光源氏

●女性に映る実母の面影

前回の続きです。女三宮を正妻として迎えたことが航路を外す転機となったと俯瞰しました。では何故、光源氏はそのような浅慮で足を掬われてしまったのでしょうか。相手が内親王であったから、それとも欲情に抗えなかったから。根はさらに深いように思えるのです。

光源氏の生母は桐壺更衣。源氏が三歳の夏に横死しますが、生前宮中では帝からの寵愛を独占していた為、周囲からは随分酷い苛めに遭いました。この辺り、史実として一条天皇の寵愛を受けつつ早逝した中宮定子と重なりますね。一条天皇は一度落飾(出家)した中宮定子を還俗させてまで自分の傍に置いたというのですから、その寵愛ぶりが覗われます。また実母の早逝は紫式部自身にも降り掛かったことでもあり、興味深いところです。
さて、光源氏です。哀しい別離のはずが幼い光源氏にはその現実に意識がついていけません。悲しい、寂しいといった感情が湧いてこないのです。しかし隠された実母への思慕は時と共に醸成され抑制し難い怪物となって噴出して来るのです。

桐壺更衣(源氏の実母)という愛妻に先立たれた桐壺帝(源氏の実父)は藤壺中宮を後宮に迎えます。源氏はその藤壺中宮が亡き桐壺更衣と瓜二つだという噂を耳にします。実母への思慕はやがて藤壺中宮への歪んだ恋情へとその姿を変容させていきます。源氏が見つめていたもの、それは藤壺中宮ではなく、顔も知らぬ母の幻影だったのです。他方、道ならぬ源氏の求愛を振り切るように後年、藤壺中宮は落飾(出家)します。最早、密通は不可能となりました。さて光源氏の生涯の伴侶と目される女性は紫の上ですが、彼女は藤壺中宮の姪(藤壺中宮の兄の娘)に相当し、血脈の故か、藤壺中宮の生き写しのように描かれています。つまり実母の幻影はそのまま紫の上に宿ってしまったのです。そして源氏が壮年になって正妻として迎えた女三宮ですが彼女もまた藤壺中宮の姪(藤壺中宮の妹の娘)に当たります。そう、源氏がその潜在意識の於いて常に求めていたのは、実母、桐壺更衣の面影なのです。故に源氏は「女三宮を貰って欲しい」という朱雀院の申し出を断らなかった、否、出来なかった、封印したはずの思慕が激情となって首をもたげたのではないか、と私は推察しております。

●通奏低音

源氏物語に於いて、この瓜二つの人相に「面影」を求める、という系譜は光源氏に始まった訳ではありません。実父の桐壺帝は桐壺更衣を失ったあと、とてもよく似た藤壺中宮を後宮に迎えました。また源氏の没後、薫(柏木の衛門の督と女三宮との間に生まれた不義の子)も同様です。薫は狂おしい程に浮舟という女性を求愛しますが、薫が愛したのは浮舟ではなく、浮舟の容姿に宿った別の女性、大君でした。そう、三人の男性が揃って愛だと錯誤していたもの、それは全て幻影だったのです。物語の地下水脈を流れるこの副旋律は作者が意図的に発出した人間観、厭世観でもあると思います。全ては霧消し、残るのはその影に過ぎない。そして人はその影を追い求める。色即是空です。

●阿弥陀如来とキリスト

藤原道長は光源氏のモデルの一人とされていますが、その長男、頼道は宇治平等院を建立した人物です。平等院鳳凰堂の本尊、阿弥陀如来坐像はとても有名ですね。このような建造物、また源氏物語の宗教的描写から平安時代の貴族達が仏教にその拠り所を求めていたことが覗えます。さて、では阿弥陀如来(仏)とはどのような方なのでしょうか。元々はサンスクリット語でアミターバ(無限光)、アミターユス(無量寿)を漢字表記したものです。また如来とは如(真理)から来た、の意味です。平易に言い表しますと、まことの光、永遠の命、真理なる方です。はて、と思われた方もいらっしゃるでしょう。

聖書はイエス・キリストについて次のように記しているからです。
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(ヨハネ1章9節)。

「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(第一ヨハネ5章20節)。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)。

ほとんど同じですね。でも異なる点もあります。仏とは悟りを得た方のことです。阿弥陀如来は悟りを得る前は法蔵という名の菩薩でした。菩薩とは悟りを求める修行者のことです。この法蔵菩薩が48の願いを立ててこれが叶い仏となった、これが阿弥陀如来です。18番目の願いは、全ての生あるものが念仏を称えることで浄土に生まれる、というものであり後の浄土教の根幹となるものです。では菩薩が修行して如来になるのにどれ程の期間が必要なのでしょうか。今、最も悟りに近い弥勒(みろく)菩薩が仏になるのは56億年後と言われています。ということは法蔵菩薩も同様の年月を経て仏になったということでしょうか。これは真実の話でしょうか。それとも人間の創作した“教え”なのでしょうか。紫の上や女三宮は光源氏がその心に創出した幻影でしたが、それと同様、阿弥陀如来とは人間の渇望が観念の中で創り出した虚像に過ぎないのではないでしょうか。

●逃避場

作中女性の多くは光源氏の愛に翻弄されつつ落飾(出家)していきました。虚飾に満ちた宮中、そして源氏自身の瞳に映る自分もまた虚像に過ぎないと知れば、それも当然の帰結でしょう。そして源氏もまた同様、最後は出家の準備を万端整え、新年を迎えるところでこの物語から姿を消して行きます。
物語には紫式部の人生哲学もその色彩を帯びていますが、出家についての捉え方も垣間見えます。出家とは、現世の様々な煩悩からの逃避場ではあっても解放の場では無いということです。出家したはずの藤壺の尼君、そして朱雀院も自分の実子のことで心配の種は尽きることが有りませんでした。出家により心の至福を享受出来る訳ではないということです。

●愛の源泉
さて、聖書の中にも愛を希求した女性の話が記されて。何度も結婚を繰り返しながら本当の愛を得られなかった女性の話です。

そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人を求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネ4章6節~26節)

 「サマリヤの女」として親しまれている聖書の話です。イエス様は井戸の傍らに腰を下ろして女に水を求めます。井戸から汲む水は飲めばまた渇きますが、女が求めた愛もそのようでした。「この人なら」と信じて結婚しますが、飲み干した井戸の水と同様、別の男性への渇望は止まず、いつまで経っても満たされることが無いのです。ところがその話の展開は礼拝すべき方は誰なのか、という宗教論争へと展開していきます。一見全く関係の無い二つの話題、「渇くことのない水(愛)」と「礼拝すべき方」ですが、実は通底していたのです。というのは尽きることの無い湧水、すなわち愛の供給者こそ「礼拝すべき方」、神だというのです。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31章3節)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のため、宥めのささげ物としての御子(キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4章10節)

●魂のふるさと

光源氏が渇望したもの、それが幼くして亡くした母自身だったとすればその母以外に彼の心を満たすものは有りません。同様に私たちの魂を満たす方、それは私たちに命と人生を与えて下さった神以外にはおられないのです。

「わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ」(イザヤ44章22節)

今も神様は私たちを招いて下さっているのです。

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