第3回 蛙化現象に見る光源氏の愛
蛙化現象に見る光源氏の愛
●蛙化現象
「赤ずきん」、「白雪姫」、懐かしいですね。ストーリーよりも先に絵本で見た彩画が瞼に映ります。では同じグリム童話集に収録されている「蛙の王様」などはどうでしょうか。昨年流行した“蛙化現象”という新語(死語になって欲しい気もするが)はこの寓話から生まれた流行語です。男女間の恋慕が一転して嫌悪に変わるという現象を指します。(「蛙の王様」では嫌悪が好意へと変わったはずなのに)。その180度変わる原因は様々ですが主なものとして「相手も自分に好意を寄せていることを知った⁉」というのが挙げられています。飛び上がって喜びそうな朗報なのに何故って話ですね。勿論他には「なるほど」と首肯出来る類の理由もあります。「店員への横柄な態度を見てしまった」「平然とポイ捨てするのを見てしまった」等です。
さて、お互いの顔を見ることが皆無に等しい平安時代、宮中の恋愛事情では「顔を見てしまった」というのも“蛙化現象”の一因となったようです。
●見えないものへの憧憬
顔が見えない時代、恋文の送受、逢瀬の手引きを担っていたのは主に侍女達(当時の言葉で女房)でした。侍女は複数の邸を出入りしており、情報の流通を担っていたのですね。そうした彼女達にとっては何等かの作為(悪戯)をするのも楽しみの一つだったのでしょう。大輔命婦という侍女は光源氏の乳母の娘でしたが、皇族「常陸宮」邸にも出入りしていました。ふと悪戯心が過ったのか、「亡き宮に娘がいる」という情報を源氏の耳に入れます。好色な源氏は早速行動を開始します。邸に近づくと皇族に伝わる高貴な楽器、七弦琴の音色が漏れ聞こえてきます。ところがそこに源氏を尾行してきたライバル、頭中将と鉢合わせ。「なんだ、頭中将も狙っていたのか、ならば間違いなく素敵な姫君に違いない」、源氏の期待は確信へと、そして確信は妄想へと際限なく膨らんでゆきます。源氏と頭中将は先を争うように和歌(恋文として)を送りますが姫からの返歌が貰えません、それが却って恋情を焚き付け、源氏は遂に大輔命婦の手引きによって寝床への侵入に成功するのです。
さて、聖書にも次のような聖句が有ります。
「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリント4章18節)
ベールに包まれたものって神秘ですね。その神秘に人は吸い寄せられるのもまた現実です。でもその除幕の瞬間、なんだ、こんなものだったのか、と落胆することも多々あります。聖句に記された「見えないもの」とは現世に於いてではなく、天の御国、キリストのご来臨に於いて顕わになる希望、永続するものですが、現下の可視的な期待は全て霧消すると諭しています。
では源氏が夢想した期待、シルエットの実像は如何なる結末をもたらすのでしょうか。
●顕わにされた実像が映し出したもの
今と違って暁光前に情夫は臥所を去りますので添寝をした女性の容姿を見ることは困難です。さて、季節は冬へと変わりました。降雪のあった翌朝、源氏は一計を案じます。「朝の空が美しいから」と彼女を誘い出し、庭を眺める振りをしながら雪明りに照らされた彼女の姿を横目でしっかり捉えたのです。
座高が高い、異様に長い鼻(普賢菩薩の乗物(=象)のような鼻)の先は垂れ下がっていて赤くなっている(故に彼女は「末摘花」(紅花)と呼ばれます、以降「末摘花」。紅花は茎の末に咲く花を摘み取って染色用とするため末摘花との異称でも知られています。山形紅花まつりは有名ですね。)さらに額が広く、顔は青白く間延びしています。ガリガリの痩身。頭形と長い髪だけは見事な美しさと紫式部は記しています。よくもこれだけ酷くこき下ろしたものですね。身近にそういうモデルがいたのでしょうか。
と、考えながらふとニーチェ著「ツァラトゥストラかく語りき」の一説を思い出しました。「眠っていないときの日頃の友の顔はいったい何か。それは君自身の顔なのだ。」深淵で含蓄ある哲学者の言葉です。門外漢の私が勝手に解釈して恐縮ですが、確かに人の表情というのは自分自身を映す鏡なのかも知れません。人は相対する一人ひとりに固有の表情を持っているものです。もし紫式部がそういう意図を持って記したとすると、末摘花の醜さは源氏という人物の内面の醜さを写し出す鏡だったのかも知れません。
さて、さすがの源氏も「見なければ良かった」と肩を落とします。“蛙化現象”の嫌悪ほどではありませんが、相当がっかりしたようです。末摘花の容姿も顕わになりましたが同時に源氏の“愛”の浅薄さも顕わになりました。
聖書にも“蛙化現象”のような話が出て来ます。好きになった女性を強姦した後、あっさりと見捨てる王子の話です。
「アムノンは彼女の言うことを聞こうとはせず、力づくで、彼女をはずかしめて、これと寝た。ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった。アムノンは彼女に言った。『さあ、出て行け。』彼女は言った。『それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう、悪いことです。』しかし、彼は彼女の言うことを聞こうともせず、召使いの若い者を呼んで言った。『この女をここから外に追い出して、戸をしめてくれ。』彼女は、そでつきの長服を来ていた。昔、処女である王女たちはそのような着物を着ていたからである。召使いは彼女を外に追い出して、戸をしめてしまった。タマル(彼女の名)は頭に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いていた。」(Ⅱサムエル13章14節~19節)
「そんなひどい奴もいるのか」と怒りに震えますね。実は私たちもよく耳目にする身近なことなのかも知れません。今や死語かも知れませんが「成田離婚」という言葉が流行った時代も有りました。つい最近も電撃結婚後僅か三ヵ月で離婚となった有名人もいましたね。
さて、源氏です。そこは流石に貴公子ですから自分のショックが末摘花に知れないようにしましたし、寧ろ継続的な財政支援で落魄した彼女の家を助けたのです。しかし、それは憐れみではあって“愛”とは異質のものですね。もし貴方が末摘花だったとして源氏の落胆に気付いてしまったらどうしますか。
●変わる人間、変わらない神
「なんだ、源氏もたいしたことないじゃないか」と彼を責めることが出来るでしょうか。蛙化現象ほど極端でなくても“時間”という試金石は容赦なく私達の“愛”の真価を露呈させます。果たしてその試練に耐えうる人がいるのでしょうか。
聖書には人間の弱さとそれを被う神の愛を表す出来事が記されています。
「彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいました。』ところが、ペテロはそれを打ち消して、『いいえ、私はあの人を知りません』と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、『あなたも、彼らの仲間だ』と言った。しかしペテロは、『いや、違います』と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、『確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから』と言い張った。しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」
(ルカの福音書22章54節~62節)
「たとえ死であろうと覚悟は出来ております」と忠誠を誇示したペテロは連行されて行くイエス様の後を追っていきます。敵対者たちの中に身を潜めて焚火にあたるのですが、「あんたも弟子じゃないのか」との詰問に「知るもんかっ」と言い放ちます。自分が情けなく、赦せなく落涙に膝を落とすのです。
弱いペテロ、惨めなペテロ、でもこのペテロが好きでたまらないクリスチャンが多いのです。かく言う私もその一人です。何故ならこのペテロこそ自分の分身だと思えるからです。
そしてもう一人、ペテロを無制限に変わりなく愛する方がおられます。「知らない」と否定された当人、イエス様その方です。「主が振り向いてペテロを見つめられた」と記されています。無言の眼差しは何を語っていたのでしょうか。「予め言っておいただろう。わたしはあなたの信仰がなくならないように祈ったのだ。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」。無条件に愛するキリストの瞳です。
私たちは誰かからの愛を希求する存在ですね。貴女は源氏のような貴公子から愛されたいですか。末摘花のような容貌であることが知れたら彼の愛は瞬間に冷めてしまいます。化粧で隠しますか。加齢による皺を隠そうと並々ならぬ苦労をしている方も多くおられるようです。人間の愛は条件付き、期限付きだからです。そして誰もがそれを知っていて哀しい努力をするのです。
“蛙化現象”、蛙の鳴き声のように哀しい叫びに聞こえます。これは一時の流行語、一部の不節操な人達の異界な現象ではなく時空を超えた人類共通言語なのかも知れません。期間の長短、変化の緩急は異なっても私たち人間は変わってしまう存在なのです。
しかしそのような私たちを熟知した上でなお変わらない愛で愛して下さる方、イエス・キリストの言葉に是非耳を傾けて下されば、と願います。
「主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31章2節)
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(へブル13章8節)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(Ⅰヨハネの手紙4章10節)
にゃんこのバイブル【全部読む】