第4回 心のリトマス試験紙

心のリトマス試験紙

●延頸鶴望の女性

“岸壁の母”。「⁉、古いな」と思った貴方はご存じですね。そのタイトルを付けた流行歌やドラマはある実話を基に創作されたものなのです。端野いせさんという女性が六年もの間、舞鶴の岸壁に佇み息子の復員を待ち続けたという悲話。
女性が我が子や夫を待ち続けるという話は涙を誘いますね。古今東西、多くの映画や譚歌のモチーフとなって来ました。知人に“哀愁のハモニカ奏者”がいますが彼は伊映画「ひまわり」(これも古い!)にいたく感動しそのテーマ曲を十八番にしています。尤も「ひまわり」の女性はただ待つだけではありませんでしたが。また、源氏物語に大きな影響を与えた「蜻蛉日記」もまさに“待つ女性”の哀しみが滲み出た作品ですね。「通い婚」が普通の平安貴族社会に於いて女性はいつも待たされる側でした。そして源氏物語、作中の女性たちも哀しみに涙で袖を濡らしたのです。さて、前回ご紹介した末摘花ですが、彼女もまた延頸鶴望の女性、源氏の足音に耳を欹(そばだ)て続けたのです。

●源氏の退避と帰還

政敵、弘徽殿大后の妹、また朱雀帝の籠姫でもある朧月夜との密通が露見した源氏は追放処分を免れるため自ら須磨へと退避します。翌年には明石へと移住しますが謹慎生活は計二年半に及びました。その後、朱雀帝は弘徽殿大后の反対を押し切り勅勘を解いて源氏を都へと呼び戻します。戻った源氏は永らく待たせた妻妾たちとの再会に喜色満面ですが、末摘花のことはすっかり忘れてしまいます。

●廃れる家屋、顕れる真価

末摘花は本来、後ろ盾となるはずの父が早くに他界、兄は出家しており家計は困窮を極めております。侍女達は一人去り、二人去り、屋敷は荒廃に浸蝕され、梟は啼き狐がその棲家とする有様です。と言っても元々が皇族の屋敷、造りや家具は古風ながらも格式を具えております。相応の額で譲り受けたいという御仁も現れますが彼女は頑として聞き入れません。「亡父が残してくれた財を手放す訳にはいかない」と周囲の進言をも諫めるのでした。また末摘花には他家へ嫁いだ叔母がいましたが、降嫁先の家柄故、親族から見下されたことを逆恨みしており、落魄した末摘花を見返す機会を窺っていたのです。夫が筑紫(福岡)へ赴任することが決まり、これを好機と捉え、末摘花の同行を執拗に誘います。“救済”という美談を盾に実は自分の娘達の侍女にしようという魂胆があったのです。末摘花はこの打診も退けます。
“源氏帰還”という風の便りは末摘花の耳朶にも触れますが、彼女の元を訪れてくれる気配はありません。「もう終わりなのかしら」。もの静かな彼女の唇から嗚咽が漏れます。全身を“不器用”という鎧で身を包んだ末摘花、その武装が溶解し、ここに至って初めて彼女の内面がその顔を覗かせ始めました。無口、無愛想だった末摘花、貴族の社交界では到底通用しない木石。けれども行間に隠された彼女の叫びが読む者の心に響きます。「お願い、私を思い出して」。“純真”の萌芽が見え始めました。いよいよ蛹(さなぎ)から成虫となった蝶が舞う時が来たのです。さてその蝶はどのような色彩を帯びていたのでしょうか。
「あのプレイボーイは他の女に夢中なのさ。こんな所に訪ねてなんか来るものか」。毒づく叔母の言葉は容赦なく彼女の心を引き裂きます。末摘花には仲の良かった幼馴染、乳母の娘がいました。ところが意地悪な叔母はこの娘さえも筑紫へと連れて行くと言い張るのです。「たとえ独りぼっちになろうとも最後まで待つわ」。これが末摘花の覚悟であり、また様々な虚飾を脱ぎ捨てた彼女の真価を表す言葉でした。

ありつつも
君をば待たむ
打ち靡(なび)く
我が黒髪に霜の置くまでに  ー磐姫皇后ー

●曙光

源氏が都へ帰還したのは28歳の秋でした。末摘花のことはすっかり忘れたまま越年し、やがて夏を迎えました。源氏はある別の女性を訪ねようと出掛けましたが、途中、荒廃した屋敷に思わず立ち止まりました。「以前に見た覚えのある木立だなあ」と思いめぐらし、はっとします。末摘花の報われた瞬間でした。彼女は知っていたのです。「私は一番愛される女じゃない。二番でも三番でもない。いや妻たちの末席にすら数えて貰えないかも知れない。けれども源氏は私のことをきっと思い出してくれる。」

聖書に次のような聖句が有ります。

「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」
(Ⅱコリント4章16節)

どれほど鍛錬した身体、また美肌も加齢と共に衰えていきます。けれどもその体に宿る魂はどうでしょうか。イエス様を主と信じるクリスチャンは聖霊なる神を内に宿し、その御方が源泉となる力によって日々新たにされるというのです。さて、末摘花の荒廃した屋敷は彼女の不美人を象徴しているようです。しかしその入れ物(家)が廃れることで内側に住む本姿が顕わにされていくという“化学”が展開されます。見せかけの姿と見えない心根の対比、やがて消えゆく“光”源氏と時を経て“輝き”を放つ末摘花の美点が浮き彫りにされた話譚ですね。みすぼらしい蛹(さなぎ)から出て来たのは美色に輝く蝶でした。
さて、もう一つ、末摘花の物語から想起される聖書の箇所が有ります。

「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊にとりつかれているのです。』しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、『あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです』と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません』と言った。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った。すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』しかし、女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15章21節~28節)

この出来事があったのはイエス様が十字架に掛かられた年の前年の初夏です。ツロとシドンの地方はユダヤ人からすれば異国になりますので、外国人の女性が登場するのもごく自然なことです。この時期イエス様はユダヤ人指導者との緊張を避け、また後の福音宣教の布石を置くという目的も兼ねて異邦人(ユダヤ人以外の人々)の住む地域を旅しておられました。それにしてもイエス様、随分冷たいですね。「子どもたち(ユダヤ人)のパンを取り上げて、小犬(外国人)に投げてやるのはよくないことです。」と、そこまで言いますか⁉、と反論したくなりますね。外国人というだけで“小犬”呼ばわりするのですから。しかし、ここにこそ人がイエス様を信じる際の“肝”があると私は思います。
そもそもイエス様が何か奇跡をなさる時、その動機となるのは何でしょうか。
① 私達の側にそうしていただく資格や美徳があるから。
② イエス様のご性質が愛だから。
さて、①②の何方でしょうか。貴方自身の心こそがその答えです。ここが肝要、これが曖昧だと“恵み”が分かりません。そしてこの“恵み”を引き出す導線となるのが“信仰”です。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」この言葉こそイエス様が待っていた「信仰告白」です。これを引き出すために「小犬に投げてやるのはよくない」という辛辣な言葉があったのです。丁度、意地悪な叔母の言葉が末摘花の真心を試したのと同様です。「試練で試されたあなたがたの信仰は火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価」(Ⅰペテロ1章7節)という聖書の言葉もあります。イエス様はこの女性の信仰が本物であることを喜ばれました。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」隠されていた彼女の信仰を引き出されたのです。
何かを受ける資格が私達の側にあるのではなく、それをせずにおれないイエス様のご性質、愛こそがその御業の源泉だというのです。

「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11章6節)
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2章8~9節)

千年を経て今なお読み継がれている「源氏物語」。その魅力は何処にあるのでしょうか。ひとつには作者、紫式部の人物造形にあると思います。一人の人格の中に多様な要素が同居していて、決して単純ではないことが見事な筆致で活写されています。しかもその多様な要素は時間と共に成長したり変容したりするのです。末摘花は貴族社会に通用する教養を受けることなく育った古風に過ぎる女性でした。源氏が彼女に接近した動機は所謂遊び人の邪心ですし、その情も薄いものでした。しかし、源氏との出会いによってその容貌には見えない末摘花の美点が引き出されたこともしっかりと紫式部は記しているのです。
「人生は出会い」。まさにその通りですね。さて貴方は今までどのような出会いを経験されたでしょうか。私達を造り愛して下さった方、イエス・キリストは今、貴方との出会いを求めて心の扉を叩いておられるのです。

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