第5回 世界で一つだけの花

世界で一つだけの花

●女性の宝物
リスペクト、コンプリート、アテンド、ディール、もうウンザリ。体温のない表音文字が僕の可聴域を許可なく遊泳する。先日もあるご婦人との会話につんのめった。「TVの宣伝に誘われ店を覗いたんだけと、ウィッグって高いのね。」「えっ?」 “かつら”のことかと気付くまで四分休符。「違うわよ、“かつら”っていうのは貴方みたいな薄毛オッサンの道具、“ウィッグ”というのはオシャレのアイテム、別物なのよ。」らしいです。ニホンゴの講釈まで受けてしまいました。
そう言えば北朝鮮は数十億円/年の女性頭髪を輸出しているそうですね。兵器開発の裏側で女性の身を削る犠牲が支払われていることに心が痛みます。他方、女性がん患者向けの医療用ウィッグは供給強化が叫ばれています。闘病女性にとって、頭髪の喪失は金銭困窮と合わせて正に三重苦でしょう。長く美しい髪は美の象徴、何物にも代え難い宝物なのですね。
「賢者の贈りもの」(O・ヘンリー著)は愛する夫へのプレゼントを買うために膝下まで伸びた美しい頭髪を手放す女性の感涙譚でした。犠牲の大きさは愛の重さを量る天秤でもあるのですね。イエス様の十字架という極刑もまたその愛の深さの表れだということです。

●平安貴族女性の黒髪

「私も昔はロングヘアーだったのよ」と昔を知らない人の前で胸を張る貴女(あなた)、平安時代なら「尼僧さん?」と間違われるかも知れませんよ(現在のように頭を丸めるのではなく肩のあたりまで髪を残した)。何しろ身長相当が平均だったようですから。歴史物語「大鏡」(先日放映された「花山院の出家」(光る君へ)等も詳述されています)には7m~8mもある髪の女性が出てきます。村上天皇(一条天皇の祖父)の妻、芳子ですが、内裏に向かう牛車に乗り込んだ時、頭髪の先端はまだ母屋の柱にあったらしいです。少々盛られた話かも知れませんが、それだけ女性にとって髪の毛は大切なもの、という逸話でしょう。源氏物語に登場する長い髪の女性としては浮舟(六尺=180センチ)、末摘花(九尺あまり=270センチ)でしょうか。

●持ち物は主に似る

さて前回でも取り上げた末摘花ですが、勅勘が解けて都に戻った源氏の来訪を挙踵して待つ間、屋敷は荒廃が進みます。そうした窮地の中で乳母の娘が叔母(母の妹)と共に筑紫(福岡)へと旅立つというのは正に落穽下石です。侍女、とりわけ乳母娘というのは幼少期より親密な場合が多く、特にこの娘の場合、実母(末摘花の乳母)が「最後までお仕えするように」との遺言を残していたのです。末摘花からすれば「裏切り」とも思える仕打ちです。人生の最も辛い時、この逆境を共に耐えて欲しい、その心の支えとする侍女が自分の元を離れて行くのです。「あなたまでもが私を見捨てて行くのですか」と意趣を吐露しつつも末摘花は精一杯の誠実を尽くします。自分の抜け落ちた頭髪を集めてかもじ(鬘)にし、細工を凝らした箱に収め、代々伝わる薫衣香のたいそう香ばしいものを一壺添えて形見として渡すのです。

「絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら
思いのほかにかけ離れぬる」

<離れることはないと頼りにしていた玉かづら(鬘の美称)-あなたです-思いもかけず遠くに行ってしまうのですね>

今まで仕えてくれた給金代りなのでしょうか。ここの絵面もまた末摘花という女性の心根を描いているように思えます。末摘花は不美人です。作者、紫式部に唯一褒めてもらったのが美しい黒髪でした。「持ち物は主に似る」と言いますが、紫式部はこの黒髪を末摘花の象徴として描いたのかも知れません。黒髪を分身として旅立つ娘に携行させます。その所作には末摘花の傷口から醸し出される優しさが漂ってくるように思えます。

●赦された女性

古代中東でも長く美しい頭髪は女性の宝物だったのでしょう。聖書の中に自分の大切な髪の毛を手拭い代わりに使った女性のことが記されています。

すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカの福音書7章36節~50節)

イエス様はおよそ30歳の頃から公に宣教を開始されました。そして十字架までの三年半、イスラエルの各地を巡られ神の国の到来を宣教されたのです。この三年半を公生涯と言いますが、ユダヤ人指導者達との摩擦が次第に先鋭化されてゆく過程でもありました。今回の場面はその過程にあって体制側のシモンがイエス様の人物評定をしようと一席設けた会食の席上のことでした。換言すればシモンは端からイエス様を客人扱いする気など無かったのです。その不協和音はコロナ下の黙食のように淀んだ空気で場を沈鬱にします。その時です。弾けるような珍事が一同の耳目を奪いました。新たな登場人物、「罪深い女」の登壇です。「罪深い女」とは春を鬻(ひさ)ぐことを生業とする女性を指す婉曲表現です。当時、ラビ(ユダヤ教の教師、ここではイエス様)を招いての会食は公聴できるように出入り自由とする習わしがありました。それが“招かれざる客”の闖入を招いたのです。

●表層的洞察

シモンはこの女性の素性を見抜きました。「どう装ったところでオレの目は誤魔化せんぞ。街娼じゃないのか。それにしてもこの男(イエス様)はどうだ。気付いていないようだな。預言者が聞いてあきれる。とんだ食わせ者だ」。単細胞シモン、と決めつけるのは早計です。私達も五十歩百歩。「そんな奴は無期懲役だ!死刑だ!」とTVと会話する茶の間裁判官の何と多いことか。後日の掘り下げた報道に自らの浅断を恥じ入ることもしばしばです。まして自宅内での珍百景。シモンならずともこの事象に咳払いをしたくなるのも頷けますよね。

●X線的洞察

他方、この絵画、下層に塗られた色彩を透視するイエス様の眼差しが有りました。
1、女性の涙
女性の心を占めていたのは溢れるばかりの感謝でした。感謝が溢れる滝の涙となり目から零れ落ちました。
2、女性の髪の毛
女性の心を支配したのは謙遜でした。謙遜の故、彼女は自分の宝物、頭髪が土埃に塗れた足を拭う雑巾となったことを光栄と考えたのです。
3、女性の唇
女性の心を満たしていたのは愛への応答でした。“アイ”というコトバほど空気よりも軽くかつ毒を含んだ響きはありません。それが彼女の学んだ人生でした。でもこの方(イエス様)はそのような彼女の考えを一変させました。道を外した私、その私をそのままの姿で愛して下さる、それがイエス様でした。その無条件で褪せない愛が彼女に勇気を与えたのです。
4、女性の香油
女性の心に芽生えたのは崇高な方にひれ伏す、礼拝の思いでした。
都に聳え立つ荘厳な神殿、高い石垣、装飾を施された門は「ここはおまえの来る所じゃない」と威圧しました。しかし今、心を注ぎ出して頭を垂れたい、そうせずにはおれない方が目の前に現れました。イエス様です。手元にある香油、自分には高価だったけれど、今こそ全てを捧げよう。彼女の礼拝は芳香となって天に立ち上ったのです。

●二種類の罪人

「すべての人が罪の下にあるからです」(ローマ3章9節)。人は誰もが罪人だと聖書は語ります。その罪人は二種類に分かれます。「自覚している罪人」と「自覚していない罪人」です。「罪深い女」は前者、女性を蔑んだシモンは後者、“人を見下す”罪人です。要諦は自覚の有無、これが分水嶺となります。イエス様は“免除された借金の多寡の譬え”で例証して下さいました。「赦されている」感謝、感動が奇異にも映る行動へとこの女性を駆り立てたのですね。

●世界で一つだけの花

直木賞作家の今村翔吾さんが某新聞のコラムに書いておられましたが、小説というのは書き進めていくうちに作中人物が作者の手を離れて「独り歩き」を始めるそうです。キャラクターに命を吹き込む、とはそういうことなのでしょうか。源氏物語を読み進めていくと、様々な登場人物が紫式部の意を無視してピノキオの如く個性を発揮し始めます。末摘花もその例外ではなく、作者に向かって「私ってただの“道化”じゃないのよ」って対等に自己主張しているようでとても興味深いのです。
と思いつつ本来物語の主役である源氏を陽画(ポジ)として描きながら陰画(ネガ)的キャラクターを浮き上がらせる紫式部の筆力にも感服します。「源氏物語でどの女性が好き?」よくある質問ですね。夕顔、紫の上、明石の君、様々な美人達が頭の中を駆け巡ります。自分こそが「世界で一つだけの花」だと譲らない自信家達。でも末摘花は見向きもされない道端の野花。人に踏まれ、犬にオシッコを引っ掛けられる、そんな花もまた「世界で一つだけの末摘花」。紫式部は瞼裏に何を観ていたのでしょうか。
そして「罪深い女」に眼を留められたイエス様。私達にも問われています。「この女を見ましたか」と。さて、私達はこの女性から何を学ぶべきなのでしょうか。

<追記>

前稿を読まれた方から「末摘花はその後どうなったの」という質問を受けました。源氏が荒廃した屋敷を見て思い出した後のことですね。源氏は末摘花を訪れた後、屋敷を修復させ財政的援助もしました。またその後には、二条の東の院に迎えて住まわせました。最後まで自分の庇護の元に置いたのです。

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