第6回 ガラスの天井

ガラスの天井

●貧富貴賤
「採れたてのキャベツ、食べへん?」。ほんの今まで裏庭に休眠しとった瑞々しいのが目の前にゴロン、不覚にも四角い顔がまあるくなった☺。途端、やっぱり休眠しとった脳に火が点いた。ヴォーン、エンジン全開!(豚バラあったかいな、玉子、ネギに天かす……)そう、関西人の血が騒ぐ、今夜はお好み焼きや。農家のおばちゃん、おおきに!
なのに、である。「毎日野菜を売ったり牛の世話をしたり物を作ったりとかと違って、基本的に皆さんは頭脳・知性の高い方たちです。」ええっ、耳を疑う。某県での新入職員への訓示、お偉い方の口から飛び出た有難い(有り得ない)お言葉。この舌禍で急転直下の辞職へコロン。その際のインタビュー、さらに驚くべき言葉が宙を舞った。

散りぬべき
時知りてこそ
世の中の
花も花なれ
人も人なれ

<花は己が散るべき時を知っている故に美しい。人も同様、今こそがその時なのだ>

細川ガラシャ辞世の句。武将の妻としての矜持、そして信仰者としての恭順の挟間で揺れつつも己がゴルゴダ(刑場)を最期まで見つめ続けた貴婦人、方や向天吐唾、自らが放った狂言に心酔した挙句、県史に汚名を刻んだ元知事、両者には一ミリも重なる所を見出せません。これ、全く似つかわしくないですね。“似つかわしくない”と言えば枕草子、時空を超えた清少納言の放言が炸裂します。

「にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし」

こらあっ、って怒る前に吹き出してしまいますね。拙弟の心情訳枕草子。

<似とらんもの、そうね、例えば雪や月。その雅を愛でる情緒豊かな、そう私のような貴人宅にこそ相応しいのよ。月よりも蛍光灯ですって⁉。そんな雅の“み”も分からぬ下人草庵まで何で月影が差すのよ、勿体な~いっ。猫に小判だわ、これ、>

どないどす、清少納言はん。せやけど元知事と同じ“上から目線”?ゆうのはいただけまへんな。

●平安時代の格差社会

同じ平安時代、紫式部の方はどうでしょうか。「光る君へ」の第四話、場面は源倫子サロン。竹取物語云々、話は佳境に。場に投じられた一石「かぐや姫は何故、高貴な男性達に無理難題を押し付け誰とも結婚しなかったのでしょうか」(赤染衛門)にまひろ(ドラマ中での紫式部の名前)の心が決壊。
「やんごとなき人々への怒りや蔑みがあったのではないでしょうか。帝さえ翻弄していますから。身分の高い低いなど何ほどのこと、というかぐや姫の考えはまことに颯爽としていると思います。」
ほう、言い切りましたね!勿論、この激白は大石静さん(「光る君へ」脚本)の創作ですが、こうした紫式部の人物造形は源氏物語にその根拠が見出せます。17帖「絵合」、紫式部は作中人物の科白を借りて持論を披瀝しています。
「かぐや姫の、濁ったこの世にあっても汚れることなく、はるかに気位を高く持って天に昇った宿世は高潔で神代のことのようですから、底の浅い女には想像もできないでしょうね。」
かぐや姫の視座で当時の貴族社会を「濁った世」「底の浅い」と風刺しているのです。

さて源氏物語、小説って冒頭が命ですね。読者の心を鷲掴みにするジャジャジャジャーンの響き、そして物語に通底する隠されたメッセージ。これらを見逃してはなりません。実は楽聖に勝るとも劣らぬ斬新さ、「運命の扉」を孕んだ冒頭句だったのです。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」

<いずれの帝の御代であったか、大勢の女御、更衣がお仕えしているなかで、身分はそれほど高くはないが、ひときわ寵愛を受けていた更衣がいた>

さて、何処が斬新か。「更衣」という格下女性が帝の寵愛を独占、言わば下剋上、ヒエラルキーの破壊宣言が物語の暁光を告げる鶏鳴となった所です。読んだ上級貴族達は胸糞の悪さで、中流貴族は拍手喝采で眼が釘付けになります。「更衣」はその名の通り帝の着替え補佐が本務、夜の添寝は“本業”ではありません。“本業”というのも変ですが「女御」達の方は実家の期待(皇子出産、立后)を一身に担って後宮入りします。お家の盛衰が掛かった大仕事、それを着替え係の「更衣」(本人の意志ではないにせよ)に横取りされたのではたまったものではない、そもそも「女御」、「更衣」の別は本人の意志とは関係なく父親の身分で決まり、両者間には超え難い一線が厳然と横たわっていたのです。そんな「更衣」が皇子(後の光源氏)を授かるのですから、さあ大変、一体どんな展開が、と読者は胸がワクワク。受領の娘、中流貴族の紫式部だからこそ物語に命を吹き込むことが出来たのでしょう。

他方、自分よりも身分の低い一般庶民に対する意識は如何だったのでしょうか。天井で頭を打つのは痛い、でも靴底で虫を潰しても平気。踏み台となる側の悲哀、それは彼等と同じ草履を履かねば見えない景色なのでしょう。紫式部は父為時と共に一時離京、越前へ下向しますが、その経験の反映かと思える場面が有ります。源氏の須磨流謫(12帖「須磨」)。荒涼とした鄙の地、海と格闘する海士達の様々な苦闘、かつては仄聞でしか知り得なかった浅識が肌感覚、血の流れる知見へ変わります。「心の行方は同じこと。何か異なる」<心の有り様は同じこと。貴賎に何か違いがある>と同情した源氏が海士達に衣裳を贈る姿が描かれています。人間として醸成される貴重な期間でもあったのでしょう。生来の身分は変えられなくても「寄り添う」ことは大切、そう紫式部は考えるに至ったのかも知れません。

●私達の世界に下向されたキリスト

「ローマの休日」という映画が有りました。欧州のアン王女がローマで大使館を抜け出し庶民の生活を満喫、米国人記者との恋愛を経験、といった痛快なドラマでした。別世界の雲上人が私達と同じ地面を歩き回る、という冒険は何故か愉快ですね。

さて、神の御子キリストは歴史上の事実として天から降下されたのです。“作り話”に収まらないリアリティー、その産声は荘厳な王宮ではなく、羊飼いの町ベツレヘムの夜空に響きました。

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ福音書2章1節~20節)

「クリスマス」として誰もが知るキリスト降誕の場面。今や国境、信条の枠を超え、世界中が共有する祭典ですが「キリスト降誕を祝う」という原点に還って3つの観点から考察したいと思います。

1,キリストは家族
通常、誕生日は家族間でお祝いをします。私達が“クリスマスを祝う”のはキリストご自身が私達の家族の一員となられた、ことの証左とも言えます。

 イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12章48節~50節)

世界初のクリスマス、招待客はベツレヘムの羊飼い達。彼等は住民登録の対象外、納税も免除という最下層の人々でした。しかし天国国籍の名簿には彼等の名前も刻まれています。地上では免税でも、天国市民権を得るには贖いの代価が必要です。これはキリストが代わって支払って下さいました。皆が同じ、クリスマスの招待状には貧富貴賤の差は無いのです。

2,生きておられるキリスト
誕生パーティーを祝うのは当人の存命中だけです。没後は命日を記念することはあっても誕生日を祝うことはありません。では何故今もクリスマスが祝われているのでしょうか。

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。(ローマ8章34節)

キリストは今も生きておられ、日々私達のためにとりなしをして下さる方なのです。

3,貴方を訪ねて下さるキリスト
誕生パーティーの主人公はその当人ですね。当人空席の祝宴って本当は奇妙なのですが、現代はまさにその“奇妙さ”で盛り上がっています。けれども私達が心を拓くならキリストは喜んで私達を訪ねて下さるのです。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3章20節)

●ガラスの天井

誰もがスマホで世界と繋がり、リアルでも在留外国人との接触が安易な時代になりました。“垣根”なんて見えませんね。ところが就職、昇進、結婚等々、今でも“ガラスの天井”が人と人とを隔てているのは残念なことです。そして何より悲劇なのは“神と人との隔たり”ではないでしょうか。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59章1節)

ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1章14節)

神様の側では既に“壁”を壊して下さいました。御子キリストを世に送って下さったこと、そして十字架の血という代価で罪を除去して下さったこと、です。問題は私達が頑なに盾としている「仕切り」です。是非、心の扉を開いてキリストの来訪を迎える方となられますよう心からお勧め致します。

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