第13回 今、甦る手紙
今、甦る手紙
●代書屋
“出さない”人が40%超えたそうな。そらそや、ベルトコンベアー式で量産、規格化した年賀状、出すのも貰うのも、もう“終いや”いうのも頷ける。そういや山妻は我が老母の賀状書きに没我しとる。そんでええんかっ、と小首をかしげるが、世間には“代書業”なるものがあるらしい。
小川 糸著「ツバキ文具店」の店主、雨宮鳩子(以下、鳩子)。表向きの看板、「文具店」とは別に“代書屋”を営んでいる。祝儀袋の名前書き、賞状、和食屋のお品書き等々、成る程、世間には意外と需要があるものだ。だが代書屋の本懐は達筆が売りの能書家とは違う。素人が読めない芸術的な字ではなく、“達意簡明”、読める、伝わる、が最重要なのだ。何しろ依頼は弔文、借金断り状、元カノへの安否確認等々多岐に亘っており、しかも殆どが“訳アリ”。表現力貧困な(だから依頼するのだが)依頼人は凡その内容や背景を口頭で伝えるだけの“丸投げ”。作文は勿論、紙、封筒、切手、全てを“演出”する。依頼人以上でもなく以下でもない、等身大の“心”そのものを“形”にして届ける、それが鳩子の仕事なのだ。
言われて得心、確かに“文書”って難しい。表情の見えないメールやライン、様々なバイアスに増幅されて本旨が“怪物”へと変幻するのも稀ではない昨今だ。
●絶縁状
「さて、困ったなぁ」、鳩子は首を捻る。とんでもない依頼が来た。“絶縁状”だ。大の仲良し、世話にもなった恩人宛ての手紙。あることが原因でこれ以上お付き合いは出来ない、そんな手紙を書くのである。文章は言うに及ばず、差出人の苦渋の決断を伝えるには、アイテムにも趣向が必要。まず、紙は“羊皮紙”を採択。植物繊維製の紙とは違って簡単には破れない。「破棄したらアカンでぇ」のメッセージが込める。インクは虫こぶインク、ペンは羽ペンを使う。紙との相性もあるが、非日常の“異界”が手紙を彩る。極めつけは“鏡文字”だ。左右を反転して書く文字、鏡に映すと普通に読める文字である。読み書きの未熟な幼児が誤って書いてしまう文字のことである。何故、敢て“鏡文字”なのか。これも、差出人の並々ならぬ思いを手紙全体で伝播させる為である。時間も掛かる、大変な苦労を押して書いた、ということである。
●バイブル
成程、羊皮紙は破れ難いのか。パピルスと共に古代より書物に使用されてきたことで知られています。そしてパピルスは、聖書(バイブル)の語源ともなりました。さて、このバイブル(聖書)こそが天地を造られた真の神の“心”を文字にしたものなのです。六十六巻の別々の書物から構成される聖書は、紀元前1500年頃から書き始められ、紀元100年頃に完成しました。1500年という期間を経て、モーセやパウロを始め40人程の代筆者を要して纏められましたが、依頼人(真の執筆者)は創造者なる神、これが聖書なのです。
「聖書はすべて神の霊感による」(Ⅱテモテ3章16節)。
ところが、今も昔も「書物」が受取人側からは不十分な媒体物となることが屡々です。そこで神はご自身の“心”を体現する御方、御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。
「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子(イエス・キリスト)にあって私たちに語られました」(へブル1章1~2節)。
神はご自身の“心”を伝えるために聖書を、そしてその完全な“体現”のため、イエス・キリストを遣わされた、と言うのです。
●ことばが語る依頼人の実像
今秋、モーツァルトの未発表楽譜が独ライプチヒの図書館で発見されたと報道されました。モーツァルトと言えば、あの美しい旋律が脳内シンフォニーホールに響きますが、彼の認めた手紙は此処に紹介するのも憚られる下品なものです。つまり作品が映し出すモーツァルト像と手紙からのそれとは大きな乖離があるのですね。映画「アマデウス」からはその下品さが垣間見えますね。作品と手紙、何れが“虚像”で何れが“実像”なのか。考えて見ますと私たちも、ジキル博士とハイド氏、表裏、別の顔を持った生き物なのかも知れません。
さて、神の“ことば”キリストはどうでしょうか。
「あなたがたは、もしわたし(イエス)を知っていたなら、父(神)をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか』(ヨハネ14章7~9節)。
ここで、イエスはご自身こそが見えない神の可視的な存在なのだと明言されました。別のところではこうも言っておられます。
「わたしと父(神)とは一つです」(ヨハネ10章30節)。
私たちは神を見ることが出来ません。しかし聖書は言うのです。イエスを見た者は神を見た、しかも完全に、と。
●ことばが伝えること-メッセージ-
では、この聖書、そしてイエス・キリストを通して神が私たちに伝えることは何なのでしょうか。
「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3章16節)。
上記は聖書の中でも最も知られた聖句の一つですが、下記三つの要点を語っております。
①あなたも受取人
対象者は“御子を信じる者”と聖書は語ります。世界には沢山の“宗教”と呼ばれるものが有りますが、その多くは特定の民族、地域、身分、性別に限定されます。キリスト教と言えば西洋の宗教だと思われがちですが、そうでは有りません。
②あなたも神の愛の対象
「ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」。世とは、地上の全人類です。そして神はその世を私も愛されたと言うのです。その愛の証拠は、イエスが世に来られたこと、十字架上で死なれたことだと言います。「お与えになった」とはその意味です。
③滅びと救い
何故、そうされたのか。実は神に背を向けた私たちは“滅び”に向かって歩んでいる、と聖書は語ります。死後、私たちを迎えるのは、「神などいない!」と叫ぶ私たちの思い描くままの世界です。神がいない、とは愛、恵み、光、慰めの全く無い世界です。その恐ろしさを私たちは、神のおられる現世界では想像すら出来ません。愛なる神はそれを望んでおられません。ご自身のおられる所に子として迎えたい、それが永遠のいのち、なのです。
●醸成された手紙
さて、代書屋としての鳩子はプロ、依頼人の鉄面皮に潜む“心”を見事に体現化するのですが、自分のこととなると、その心が見えなくなるのです。それは自分に代書屋としての魂を注いでくれた先代(祖母)への思いです。幼少時より厳しく躾けられましたが、高校二年の夏、今まで張りつめていた糸がプツンと切れました。「うるせぇんだよ、糞ババア、黙ってろ!」と。以来、先代との関係はこじれたまま、成人して家を出ました。“先代危篤”の知らせにも戻らず、お別れもやり過ごす。既往不咎と割り切り、長い海外放浪を経て漸く帰郷。今、先代に教わった“代書”を生業とする。祖母の足跡を辿りながら、積年、封印をしていた自分の心が胎動していることに気付く。
落葉が舞う頃、見知らぬ外人が現れた。「イタリアから来たアンニョロです」と名乗った青年は、自分の母が、鳩子の先代のペンフレンドだったという。亡母が遺した手紙の中に、先代からの手紙を見付け、一読、「これは鳩子さんに渡さねば」と思い立ち、来日したようである。アンニョロ君は言う。「これ、読んだら、わかる。あなたのバッチャン、すごく優しい。あなたのこと、愛している」。
「そんなはずはない」と鳩子は思う。悪態をつき、目の前から消えた私を赦すはずはない。和解にも無頓着な私、こんな私を遺して先代は逝ったのだ。依頼人の心ばかりを“形”にしてきた私だが先代の“心”だけは“靄”に蓋われ、輪郭すら見えないのだ。
星霜を経た今、その醸成された“ことば”が私の手で封印を解かれるのを待っている。否、“ことば”は何も変わらない。醸成が必要だったのは私の“心”なのかも知れない。
開封された樽から立ち上って来たのは、芳香を放ち、色彩を帯びた先代の“心”でした。反発する鳩子への戸惑い、一人前の代書屋に、との厳しさが却って“壁”を築いた哀しさ、その歯がゆさを理解してもらえない辛さ、すべては愛おしい鳩子への思いに溢れていたのです。涙で滲んだ紙、乱れた筆跡からはプロとしての矜持も投げ捨てた、一人のか弱い祖母の素顔が有りました。鳩子に吐き出せない“心”文通相手に吐露していたのです。
曠日弥久、鳩子は先代の“心”を受け取ることが出来ました。先代の手紙は、この啓蟄の日を待って遠いイタリアの地で眠っていたのです。
さて最終章、鳩子は先代宛ての手紙を書くためにペンを執ります。
(抜粋)
「おばあちゃんへ、、、、(中略)
イタリアの静子さん(文通相手)に、あなたはたくさんの手紙を書いて送っていた。
その中には、私のことが赤裸々に綴られていました。
そこには、私の知らないあなたがいた。
あなたは、いつもいつも、私のことを気にかけてくれていました。
悩んだり、傷ついたり、悲しんだり。
そんなこと、あなたはしない人だと思っていたのに、、、、、でも、
そうじゃなかった。
あなたはいつも悩んで、傷ついて、悲しんでいた。
先代というお面の下には、私と似た、人生に悪戦苦闘するひとりの頼りない女性がいたということを、未熟な私は想像すらしませんでした。(中略)
ありがとう。
あの時、伝えられなかった言葉を贈ります。あなたは常々言っていました。
字とは、人生そのものであると。
私は、まだこんな字しか書けません。
でも、これは紛れもなく私の字です。
やっと書けました。(中略)
鳩子より」。
●今、開封される神のみことば
経験を積んで初めて分かること、有りますね。さて、この拙文を読んで下さったあなたも、若い時に、「なんだ、こんなもの」と投げ捨てていたものは有りませんか。そして、その中に「聖書」も混じっているかも知れませんね。最初に一読した時の違和感、疑念が再度、聖書を手に取ってみることの妨げとなっているかも知れません。
しかし、今、もう一度、扉を開けてみて下さい。神の言葉は必ずやあなたの心の琴線に触れるメッセージを届けることでしょう。心からお勧めします。