No.01 白い巨塔|道しるべ

白い巨塔|道しるべ


「白い巨塔」という山崎豊子原作の小説があります。過去にも何度かTVドラマ化されており、直近のものは昨年放映されました。それらをご覧になった方もおられるかもしれません。
そのタイトルは、閉鎖された社会である大学病院を、象牙の塔になぞらえたものです。病院を舞台とした作品は数多くありますが、難病患者の病巣ではなく、医学会、医師の患部にメスを入れた本作品は、医学に無縁の私にとっても大変興味深いものとなりました。普遍的な人気を誇る理由は、その描出された人物像、特に主人公である財前五郎の陰影に私たちが共感する苦悩と哀愁が重なるからではないでしょうか。
では、いくつかの観点から概観したいと思います。

1、人生の羅針盤
財前五郎は大学病院に勤務する有望な外科医。メスを精緻に操る天才も、自分の心だけは正しく治めることが出来ません。果てることのない野心に翻弄され、是非の判断が狂い始めます。同期の内科医、里見脩二の忠言にさえも耳を貸さなくなります。実は里見こそ、財前が見定めるべき不動の北極星のような存在です。換言すれば、財前が医師へと踏み出した当初の指針であり、己が「良心」を擬人化した人物を演じているのです。
羅針盤を失った船が本来の航路から遠く離れるように財前が猛進するエリート街道は、本来の理想像から大きく屈折して行きます。
さて、振り返って、私たち自身の人生はどうでしょうか。「気がつけば随分遠くに来てしまった。どこで道を誤ったのだろう」と最早戻れぬ故郷への郷愁に嘆息しておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

2、断罪
野望に曇った外科医の目は、医師として眼力が翳み始めます。判断ミスから治癒可能な患者を死なせてしまい、裁判沙汰へと展開するのです。自分の部下が証言台に立ちました。彼は苦悩しつつも、財前を護ろうと虚偽の証言までしたのです。ところが頭に乗った財前は、全責任をこの部下に転嫁しようとします。ここに至っては視聴者(読者)も黙ってはいません。「もう我慢ならない。こんな男は決して赦してはならない」。

3、死への無力
医師としての良心を蝕まれた財前は、同時進行的に、その肉体もまた“癌”に侵されていたことが発覚します。幾多の患者を救った天才も己が病巣は切除することが出来ず、死と向き合うことになります。私たちも、「当然の報いだ」と大いに納得しつつも、心の中に「何とか助からないのか」という別の声が叫んでいるのに気づきます。一体自分がどういう結末を望んでいるのか見えなくなって来るのです。なぜでしょうか。
私たちを創造された神は、私たちが「正義」と「愛」を尊ぶものとしてお造りになったからです。「正義」は、悪人はさばかれるべきだという前者の感情を呼び起こし、「愛」は後者のあわれみの感情を呼び起こすのです。
そして神ご自身こそが、この両者を併せ持つ方なのです。罪を正しくさばく方であると同時に、その罪人を愛し、彼らが滅びるのを望んでおられないのです。

「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主のお告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル書18章23節)

4、帰るべき港
2003年にTVドラマ化された際には、番組のエンディングに賛美歌「アメイジング・グレイス」が流れていました。苦悩する財前への子守唄のように私には聞こえます。「お前の休む所は此処なのだよ」と。
後半の歌詞を直訳してみましょう。「I once was lost/私はかつて遺失物だった。But now am found/けれども今は見つけてもらったのだ。Was blind/かつては盲目であった。But now I see/けれども今は見える」。通常、「lost」は「道に迷った」と訳されますが、文法的には受動態で表現されていますので、私を所有する者(この場合は神)が私を見失い、そして見つけた、という意味になるのです。
この歌詞は、元奴隷商人であったジョン・ニュートンが自分の罪深かった半生を省みて詠ったものです。自ら迷い出ておきながら、神が私を見失った、なんて随分身勝手な詩かも知れませんね。
でも「迷路」は鳥瞰するように上から眺めれば良く見えます。一旦、自分の目線を離れて、神の視点から物事を眺めることも必要です。「迷い出た」のはもちろん、自分の責任ですが、何が原因で迷い出たのかを知らねば、元に戻ることは出来ません。
聖書は語っています。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3章10-12節)

人は罪ゆえに神から迷い出たのだ、と聖書は語っているのです。そうです。聖書こそ私たちにとっての北極星、羅針盤なのです。
人生の羅針盤を失い、迷子の羊のようにさまよう私たちのために、神は牧者(羊飼い)であるキリストを与えて下さいました。

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者(イエス・キリスト)である方のもとに帰ったのです。」
(ペテロの手紙第一2章25節)

主イエス様ご自身も、このようにも語っておられます。

「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカの福音書19章10節)

小説であれ、映像であれ、それが大変興味深いのは、そこに自分の分身を発見出来るからです。冒頭に紹介した財前五郎は、善と悪が共存する私たちの姿をよく表しています。けれども単にその世界に浸っていても解決が有りません。
心身を問わず、様々な病に席巻された現代、”罪“という根本的な病の解決を求めて、ぜひ聖書を手に取って下さい。

Follow me!