No.02 清少納言の輝く太陽|道しるべ

清少納言の輝く太陽|道しるべ

印象派画家の旗手クロード・モネはこう語りました。「印象を精確に描く為には対象を精確に描く必要はない」。
さて、「枕草子」の史的正確性に異を唱える向きもありますが、視点を変えれば、清少納言は平安文壇に新風を巻き起こした印象派に相当すると言えます。自らが仕えた中宮定子の「足跡」ではなくて、一瞬に輝く光を描いたからです。清少納言が宮殿の高い敷居を跨いだのは、正暦4年(993年)、28歳の時でした。定子(一条天皇の正妻)に伺候する女房として招聘されたのです。絶大な権勢を誇った関白、藤原道隆(定子の実父)の庇護下、才気溢れる定子との心情の交流は、清少納言にとって籠から放たれた小鳥のような空間でした。しかし、それも束の間、2年後には後ろ盾であった道隆が薨去。呼応するように凋落する中関白家、その渦中、定子も24歳の若さで早世してしまいます。道隆没の僅か五年後です。花火のように輝き、散った宮廷生活。不遇なはずの定子が「枕草子」の中では何故か華があり矜恃を保っている。情景の色彩や宮廷内の空気、その一瞬の機微を写実ではなく印象として捉えた清少納言の感性は、歌人の娘ならではの賜物でしょうか。
今回は、枕草子の第一段、「春は曙」から、四季の中に描かれた光について考察したいと思います。

1、春の光・あけぼの

「春はあけぼの」。桜や鶯といった事物でなく、「刻」で捉えました。一瞬のシャッターチャンスを逃さないカメラマン目線です。清少納言の斬新さと、定子ゼミ代表という気概が感じられます。曙光は「紫だちたる雲」(紫雲)の一瞬の輝きを映します。紫雲は吉兆を意味し、天皇家の象徴でもあります。第一段は、既に定子の没後に執筆した可能性も有りますが、だからこそ、この紫雲に定子を重ねたのではないでしょうか。永遠に輝く定子を春の曙光という「絵画」に収めたのです。
さて、聖書は主イエス・キリストを「神の栄光の輝き」(ヘブル1章3節)であると言います。清少納言にとっては、中宮定子こそが宮中の輝きであり、新芽を育む陽光、「枕草子」の筆脈を終段にまで導いた光でした。しかし私たちの航路を照らす「光」は、枕草子ではなく「聖書」、定子ではなく、イエス・キリストです。キリストは語られました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8章12節)。

2、夏の光・夜の月

「夏は夜。月のころはさらなり」。漆黒の闇に浮かぶ月。この月の粋に清少納言は魅せられました。自らがではなく、太陽の光を受けて輝く立ち位置に月の本分が有ります。清少納言、そして「枕草子」が放つ光は、丁度、月のそれです。発光源は、勿論、中宮定子です。清少納言は出仕した当初から異彩を放った才女ではありませんでした。蕾に眠っていた無限の才気を発掘したのは、11歳も年下の定子だったのです。定子は実兄から献上された大量の紙を清少納言に下賜します。当時、紙は高額であり、貴族と雖も入手は困難でした。定子は、期待を込めてこれを清少納言に託しました。これが後に「枕草子」となったのです。

さて、私たちの多くは自らが輝くことが出来ません。けれども、「輝く燈台」として下さる方がおられるのです。
「あなたがたは世の光です」(マタイ5章14節)とイエス・キリストは語られました。これはキリストの約束です。その言葉を信じて、「輝く人生」へと踏み出してみませんか。

3、秋の光・夕暮れ

「秋は夕暮れ」。西の空を染める夕焼けほど美しいものはありません。しかし「斜陽」という語彙は落日をも含蓄します。華麗な人生を送った人もやがて泉下へと旅立ちます。枕草子には綴られなかった「陰」の側面。いつか終焉が来る、という不条理は、永遠への憧憬の裏返しではないでしょうか。権勢を誇った関白・道隆も華やかな定子ゼミも写実的には洛陽であることを清少納言は知っていました。だからこそ、枕草子というアルバムに華美の極み、定子を永遠に閉じ込めたのではないでしょうか。身体は墓石に下ろうとも、草子の中に千歳に輝く太陽として。永遠への憧憬について聖書は次のように語っています。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者の書3章11節)。

不可能なものに期待を持たせることほど残酷な話はありません。しかし、キリストは語られました。

「御子(イエス・キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持っている」(ヨハネ3章3節)。

4、冬の光・雪

「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず」。
「国境の長いトネルを抜けると雪国であった」。川端康成の「雪国」の冒頭です。「トンネル」は現実と非現実を繋ぐ扉と解すると、「非現実」を描出するのは、一面が雪で覆われた白銀の世界です。清少納言は、この別世界に何を観たのでしょうか。定子を送る告別の式、それは雪が降り積もる日でした。丁度、「枕草子」に描かれた定子自身の姿のように雪が光沢を放っていたのです。でも、もしかすると、その輝きは雪のように何かを覆う蓋なのかも知れません。換言すると、清少納言は何かを覆いたくて筆を滑らせていったと推察するのです。そうでなければ、中宮定子の史実としての悲劇と草子に於ける輝きは調和しないからです。
聖書は語ります。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ1章)。覆うべきは、「罪」だと言います。そしてその「雪」となって下さったのが、主イエス・キリストです。

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(第二コリント5章21節)。

5、永遠の光・キリスト

清少納言にとっての太陽、定子は、一瞬の印象という意味に於いて現実だったと言えますが、普遍的な写実ではありませんでした。しかし、主イエス・キリストは消えることのない光です。今、周囲を、そして世界を見渡しても暗いニュースが溢れています。しかし真の「春のあけぼの」であるキリストが王として世を治める時が来ようとしています。ぜひ、聖書をお読みいただくことをお勧めします。

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