No.03 蝶々|道しるべ
蝶々
花から花へと色彩豊かな衣装で乱舞する蝶蝶。速いテンポと軽快なリズムがすっかり耳慣れた現代では、かの素朴な旋律は最早化石かも知れませんね。「蝶々 蝶々菜の葉にとまれ」で始まる懐かしい調べです。ところが御多分に漏れず原曲は舶来、ドイツの古謡「小さなハンス」で蝶々とは無関係のようです。元々の歌詞は物語になっていて抄訳すると下記のようになります。
小さなハンスはたった独り、広い世界へと家を飛び出しました。お似合いの杖と帽子、気分も揚々。けれども見送るお母さんの頬には涙が流れました。背を向け離れ行くかわいいハンスに届かぬ声を掛けました。「無事でね、ハンス、早く帰って来ておくれ」。
異国の地、7年の歳月が流れました。閉じたハンスの瞼に映し出されたのは、生まれ育った故郷の景色。懐かしさを抑えられず家路を駆け出しました。身体は大きくなり、顔や腕も日焼けて浅黒くなりました。すっかり別人と変わり果てたハンス。誰が気付いてくれるでしょうか。
行き交う人々、一人、二人、三人。誰もが素知らぬ顔で過ぎて行き、不安が頭を過ります。ようやく生家に辿り着き、思い切って扉を叩きました。出てきた姉は「どちら様ですか?」。一瞬の重い空気が場を支配します。沈黙を破ったのは駆け付けたお母さんの叫びでした。「待っていたのよ、ハンス、大切な私の息子よ」
オリジナルの歌詞を辿りながら、ある聖書の一場面を思い出しました。多くの画家達が画題にしたことでも知られているルカの福音書15章です。息子を迎えるのはお母さんではなくお父さんですが、放蕩者の役回りというのは古今東西、弟息子というのが定番なのでしょうか。
レンブラントの「放蕩息子の帰還」を見て下さい。背を向けて跪く弟息子、その衣服は擦り切れ、片方の足には靴すら失われ足裏は傷だらけです。まさに変わり果てた姿ですが、父親は彼を感無量の面持ちで迎え入れます。決して減退することのない「神の愛」を体現しているようです。ところがこの絵の怖さは、親子と距離を保つ冷たい視線です。右に立つ男は長男、後方に佇むのは使用人でしょうか。「なんて薄情な輩だ」という憤怒がこみ上げてきましたが、改めて絵を凝視しますと、「彼等こそ等身大のお前じゃないのか」との心の声が聞こえて来ました。
音楽にせよ絵画にせよ、時として作品は自分を映し出す鏡になりますね。ハンスに気付けなかった姉、弟を受け入れることが出来なかった兄。外見とは裏腹にそんな彼等の方が廃れた心に傷付いているのかも知れません。着飾ってはいてもその下に隠された「人に見せたことの無い弱い器官」。愛せぬ冷徹さ、赦せぬ憎悪に蝕まれてボロボロに擦り切れた心。
庭を飛び回る蝶に出会ったらハンスを待っていたお母さんを思い出して下さい。そうです。我が子を待つ神がおられる、貴方が帰るべき魂の故郷があるのです。