作品は作者の心を現す鏡

作品は作者の心を現す鏡

●作品は作者の心を現す鏡
芸術作品は作者の内面を映し出した分身のようにも思えますね。ルノワールの「二人の姉妹」とムンクの「叫び」。画風も色彩も対照的ですが、いずれも画家の魂を宿しているように思えます。あなたはどちらの絵に惹かれますか?

●人間味溢れる神様たち
古事記や日本書紀には日本建国にまつわる物語が紡がれていますが、描かれた神様たちはとても愉快です。八坂神社に祀られている須佐之男命(スサノヲ)は、暴れん坊。馬の皮を剥ぎ機織小屋に投げ入れたため、驚いた機織女が死んでしまいます。激怒した天照大御神(アマテラス)は石屋(洞窟)に隠れ戸を閉めてしまいました。太陽の光を失って困った他の神様たちは一計を案じ、閉ざされた石屋の外で歌え踊れの乱痴気騒ぎ。「何だろう」と気になるアマテラス。辛抱たまらず僅かに戸を開けたのが運の尽き。戸の傍に潜んでいた天手力男神に手を掴まれ外へ引きずり出されてしまいました。失笑しますね。これが天石屋戸隠れの物語。アマテラスさん、八百万の神々の最高神とは云え、何とも可笑しな失態、私達と何ら変わるところがありません。

●人間の創作した物語
失礼、こんな風に茶化しては叱責されそうですね。何等かの深淵な教訓や建国の理念が込められ、それなりの読み方があるのでしょう。だとしたら、これは史実と神話の境界が曖昧な伝承を後世の賢人が意図を以て創作した、と言えるのではないでしょうか。神々は人間が生み出したキャラクター。私達人間によく似ているのも頷けます。

●人間を造った神
ところで聖書には「人間が造った神々」ではなく「人間を造った神」のことが記されています。
「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』」(創世記1:26)。
なんと、神が人間に似ているのではなく、人間が神に似せられたと書いてあるのです。芸術作品が作者その人を映すように、人間こそが、神様のご性質を体現している存在だと言うのです。虚偽や不正を憎み、正義、愛を尊ぶ、こうした人間に備わった品性は造り主である神様を反映しているのです。

●神に背を向けた人間
でも、と新たな疑問が沸き起こります。私達人間は、悩んだり失敗したり、過ちも犯します。これって、元々神様がそんな方だったから私達もそうなった? じゃあ神様のせいだったんだ。
いいえ、そうではありません。実は神様によって造られた人間は神様に背を向けて離れていったのだと聖書は教えています。その何よりの証拠は、今、私達は神様を知らない、ということです。神様から離れた人間は神様の性質を損ない、罪を犯すようになりました。

この絵は、レンブラントの描いた「放蕩息子の帰還」と題する一枚です。
放蕩した息子が父親の元に帰ってきたという、キリストが語られた例話を題材にした絵ですが、罪に溺れた人間が愛に溢れる神様に無条件で迎えられることを教えたものです。

作品は作者の心を現します。レンブラントもまたこの絵に自分の姿を描き込みました。両手を広げて父に迎えられる息子、それは彼自身の分身でもあるのです。

さて、このページを読んで下さったあなたは如何でしょうか。あなたの造り主であられる神様を求めて聖書をお読みになりませんか。

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