一志温泉とこのめの里近くで聖書の福音を伝えるキリスト集会(教会=津市)
第10回 傘
「えらいこっちゃ、土砂降りや、傘あらへんがな」。初秋の篠突く雨、よく見る情景です。余計なもんは携行せん主義、出先で雨に遭うとホンマお手上げ。日本では一体、いつ頃から傘を……
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第9回 目は心の窓
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第1回 光源氏の暗闇
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●絵巻に象徴された傘
「えらいこっちゃ、土砂降りや、傘あらへんがな」。初秋の篠突く雨、よく見る情景です。余計なもんは携行せん主義、出先で雨に遭うとホンマお手上げ。日本では一体、いつ頃から傘を使うようになったんやろか。平安時代、源氏物語に“傘”が出てくる場面があります。
須磨流謫から帰京した源氏、末摘花邸を訪れますが雨天、傘を手にしています。末摘花は以前にも紹介しましたが、常陸親王の姫、深窓の令嬢です。親王没後は経済的に困窮し廃屋同然の屋敷に隠棲、侍女の手引きで源氏が通う女性の一人となります。しかし容姿、教養共に魅力の乏しい末摘花は源氏海馬に休眠する“遺品”的存在となってしまいます。長い須磨蟄居の後、別の女性(花散里)邸へと向かう途上、常陸宮邸に目が留まり、漸く末摘花を思い出したのです。風雨に晒された陋屋は末摘花自身の写し鏡でも有りました。源氏の手にする傘は末摘花を覆う傘、実際、源氏は彼女の庇護者となります。
●弱者を護る傘
弱者を庇う“傘”的人物が友人だと心強いですね。こんな演歌が有りました。
おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨が降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない
(「おふくろさん」 作詞:川内康範)
“世の中の傘になれ”ってか。御立派。でもそれは理想を超えた夢想の域。“世の中”どころか家族すら護れない、そんな自分も情けない。もう一つ昔の歌を思い出しました。
都会では自殺する若者が増えている
今朝きた新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨、傘がない
行かなくちゃ君に逢いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ雨に濡れ
冷たい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる。
それはいいことだろう。
(「傘がない」 作詞:井上陽水)
謎っぽい詩。我が身を護る“傘”すら持たぬ自分が雨に濡れる“君”を訪ねる、というのでしょうか。世間の冷風に沈みゆく私達。
さて、今回は聖書から“傘”的人物を紹介しましょう。
「しゅうとめナオミは彼女に言った。『娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれるでしょう。』ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします。』こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを広げて、このはしためを覆ってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』 すると、ボアズは言った。『娘さん。主があなたを祝福されるように、あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです(ルツ記3章1節~11節)」。
「あなたの覆いを広げて、このはしためを覆ってください」(9節)。
未亡人で社会的弱者のルツ、そして庇護者ボアズが彼女を覆う“傘”となります。
●落穂拾い
ジャン・フランソワ・ミレーの作品「落穂拾い」、聖書のルツ記が題材です。“落穂拾い”とは土地を持たぬ最貧農奴の労働です。地主が刈り取った後の“落穂”を拾うのです。さてボアズの土地で落穂を拾うルツは姑ナオミと二人で暮らす未亡人。出自は死海の対岸モアブ出身の外国人。飢饉を逃れてユダヤのベツレヘムから渡来したエリメレク家の息子と結婚、その後、義父、夫が他界、姑のナオミと二人残されました。ベツレヘムの飢饉は去りナオミは帰郷を決意、ルツは「自分の母の家に帰りなさい」と促すナオミに「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1:16)と反対を押し、共にベツレヘムにやって来たのです。朝から夕まで懸命に働くルツの姿は周囲からも良い評判を得ました。姑ナオミはそんなルツを思料し、ボアズが実は近い親戚であったことに妙案を得ます。 “レビラト婚”という慣習がそれです。近親者が故人の妻、財産を買い戻すというものです。日本にも“逆縁婚”という風習がありました。短編「帰郷」(浅田次郎著)では“兄戦死”の訃報(実は誤報)を受けて弟が兄嫁を貰い、後に復員した兄はそれを知り、自ら身を引くという悲話が描かれています。
さてボアズは自らが“傘”となってルツを娶りますが、制度運用には三つの条件が必要でした。
①近親者:ボアズはルツの近い親戚でした。
②財力:ボアズは十分な財力が備わっていました。
③意志:ボアズはルツを妻に迎える、という意志が有りました。
実はこのボアズ、イエス・キリストの雛形と理解されています。上記三つの観点から救い主、イエス・キリストについて考えてみましょう。
●近親者
「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)
キリストは私たち人間の“近親者”となる為、“身体”を纏われました。“傘”なる方は私たちを覆い、自らが風雨を受ける満身創痍の天蓋となられたのです。それは私たちの痛み、悲しみを身を持って体験する為でした。
「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」(へブル4:15)。
農夫ボアズはルツの辛苦を理解出来ました。同様、キリストは私たちが遭遇する全ての試練を既に経験して下さったのです。
●財力
“罪”は神への債務に例えられます。債務肩代わりの適性はその者が“無罪”であることです。
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)。
「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ2:14)。
罪なきキリストだけが私たちを贖う(買い取る)財力を有しておられるのです。
●意志
資格、財力が備わっても結局その人の意志が成否を決定します。実はボアズよりも近い親戚の存在が後段記されています。その人は当初乗り気だったのですが、土地以外にルツをも娶る責務が伴うと知ると表情を一変、心中、素早く損得の計算をします。(ルツか、いくら評判が良くたって所詮、何処の馬の骨とも分からぬ外国人、秘めた企みがあるに違いない)。翻意して言いました。
「私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなた(ボアズ)が買い戻してください」(ルツ4:6)。
そこでボアズが娶ることになったのです。さて二人の判断、皆さんは何れを支持しますか。“断った人”は堅実で賢明、合理的な思考の持主、他方ボアズは“浅慮の愚人”でしょうか。そう、客観的には“ばかな男”と言えます。しかしこの“ばか”、三浦綾子さんは「塩狩峠」の作中人物(伝道師)の科白を通してそこに内在する神の愛を見事に言い表しました。
「みなさん、しかしわたしは、たった一人、世にも“ばかな男”を知っております。その男はイエス・キリストであります。<中略>みなさん、愛とは自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし彼はそれをしなかった」。
●命を懸けた傘
ボアズが愚かだとしたらキリストは輪を掛けた愚人かも知れません。避雷針が自らに落雷を引き寄せるように、自らが十字架上で神の聖なる裁きを一身に受けられた、まさにイエス・キリストこそ私たちの“傘”となって下さった方なのです。
「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった」(マタイ23:37)。
当時のイスラエルの民に向けられた痛烈なことば、今の私たちの耳朶を叩く警鐘となって響きます。「わたしの“傘”に身を寄せなさい」と。
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