にゃんこのバイブル

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第16回 遠迷える子羊
えらい高いやん!、いや、関西万博のことやありません。お米です。エンゲル係数も高こうなっとるらしいけど、こんなん、一体誰が予想しとったやろ。……
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第15回 遠くて近きもの
    ↓
第1回 光源氏の暗闇
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定期集会のご案内

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■高野家庭集会
どなたでもお気軽にお越し下さい
●毎週日曜 15:00〜
●毎週火曜 14:00〜

■波瀬家庭集会
「和菓子と聖書の集い」
●毎週金曜 14:00〜
初めての方大歓迎です。
持参品などは一切不要です。
お気軽にお立ち寄り下さい。
お待ちしております。

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聖書と福音のご案内

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世界のベストセラー聖書よりキリストの福音をわかりやすくお届けします。

●ラジオ関西 558KHz
 毎週日曜朝 7:45〜8:00


●YouTube チャンネル
 ラジオ番組を動画にしました。
 

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膳所の特別集会に参加

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「膳所の特別集会に参加」
●日時:2025年5月3日(土)
5月3日、膳所の特別集会に参加させて頂きました。
韓国からの兄姉が来られキム・ヨンドン兄がメッセージをして下さいました。

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布施集会・日下兄姉、寺前姉妹|フォトアルバム

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布施集会の日下兄姉、寺前姉妹が 波瀬での家庭集会に来て下さいました。
●日時:2025年3月21日(金)
●場所:Cafe 古pos (コポス)津市波瀬
●連絡先:059-293-1644(小林自宅)

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新年コーヒータイム集会|フォトアルバム

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「新年コーヒータイム集会|」
●日時:2025年1月19日(日)

新年コーヒータイム集会の様子です。

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道しるべ

道しるべ
No.06 春(スプリング)|道しるべ
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●著者:小林 実
●月刊誌・伝道出版社
[アーカイブはこちらをご覧ください。] 

ハーモニカで奏でるクリスマス・キャロル

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ハーモニカで奏でるクリスマス・キャロル
こころに沁みる懐かしいハーモニカの音色!
しみじみとクリスマスを歌い上げました!
●日時:2024年12月7日(土)
●場所:Cafe 古pos (コポス)津市波瀬
■音楽ゲスト:氏原 茂 氏

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特別企画|クリスマス特別イベント

「ハーモニカで奏でる
  クリスマス・キャロル」

こころに沁みる懐かしいハーモニカの音色!
しみじみとクリスマスを歌い上げます!
●日時:2024年12月7日(土)
●場所:Cafe 古pos (コポス)津市波瀬
■音楽ゲスト:氏原 茂 氏
ヨセフにとってクリスマスは衝撃でした。まだ二人が婚約中にマリアが身ごもったのです。覚えのないヨセフは「恐れずマリアを妻に迎えなさい」という主の使いのことばに従ったのです。 「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 (マタイの福音書1:23)クリスマスの本当の意味を考えるクリスマス特別イベントに、あなたもぜひお越しください。心よりお待ちしています。

■クリスマスのお話:小林 実 氏(高野キリスト集会)
■内容:① クロマチックハーモニカ演奏 ② クリスマスのお話
■お問合せ:TEL.059-293-1644 ※駐車場有

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特別企画|文化展と茶話会

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「文化展と茶話会」
●日時:2024年11月13日 14:00~15:30
●場所:コポス(津市波瀬)
●主催:高野キリスト集会
お茶をしながらの文化展は、みなさん笑顔でたいへん盛り上がりました。

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特別企画|文化展と茶話会【済】

特別企画
「文化展と茶話会」
●日時:2024年11月13日(水)
●場所:Cafe 古pos (コポス)津市波瀬
●内容:①聖書のお話 ②抹茶 ③作品鑑賞

秋といえば芸術の秋、食欲の秋、読書の秋ですね。自然が美しく色づく季節、果実や木の実が実ります。これら3つを満喫できる特別イベントをご用意しました。ぜひお越しください。

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ザンビアから医学研修生

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ザンビアから医学研修生
ザンビアからのご夫婦(カジラ兄、ルスング姉)が、医学生研修の期間、集会に参加されることになりました。
●日時:2024年9月29日(日)
●場所:高野キリスト集会
●連絡先:059-293-1644(小林自宅)

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にゃんこのバイブル No.16

迷える子羊

●えらいこっちゃ

えらい高いやん!、いや、関西万博のことやありません。お米です。エンゲル係数も高こうなっとるらしいけど、こんなん、一体誰が予想しとったやろ。つい最近まで知人からA5ランクの新米(未精米)10kを三千円で分けて貰っとったのが夢か幻か。“快適な老後”を予定しとったオッサンどもには今の日本の凋落ぶりが嘆かわしい。某国の大統領はMAGAとか叫んどるけど、儂らこそ叫びたい!“MJGA”(Make Japan Great Again:日本をもう一度偉大な国に)。若い方々には一笑に付されるかも知れへんけど、半世紀前、日本は確かに他国も羨む“経済大国”だったのだ。
ところがである。今の有様を見通していた慧眼の士がいた。森嶋通夫氏。氏は1999年『なぜ日本は没落するか』(岩波書店)を著し、2050年の日本の没落を予告した。へえ~っ、明日の見通しも怪しいのに半世紀先を見越すとは、と驚いたが、何と同様の警句がさらにそれ以前にもあった。日露戦争の勝利に酔った1905年、誰が40年後の焼け野原を想像し得ただろうか。政治家でも学者でもない、文豪、夏目漱石だった。

●文豪の炯眼

漱石が「吾輩は猫である」で文壇デビューを果たしたのは1905年1月、国家存亡を賭けた戦争、旅順陥落の吉報に国中が激震していた時でした。同年9月、大国ロシアに薄氷の勝利。さて、漱石、“政治”をメシの種としない作家だからこそ正鵠を射た発露も出来たのでしょうか。ポーツマス条約から三年後の1908年9月、朝日新聞に「三四郎」を連載します。熊本に育った青年、三四郎が学業の為上京するその汽車の車中、同席した髭の男が妙なことを語り始めます。「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものぢやない」。三四郎は「然し是からは日本も段々発展するでせう」と答えますが、髭男は「亡びるね」と一蹴。
さて、この「亡びるね」こそが漱石の鳴らした“警鐘”と思うのです。当時の日本、「勝って兜の緒を締めよ」との寸鉄は何処へやら。最早“欧米と肩を並べる大国”との慢心が目を眩ませました。西洋に勝利した“東洋期待の星”日本に学ぼうと留学していた清国人、ベトナム人を国外追放したのです。その中には、後に辛亥革命の指導者となる孫文も含まれていました。またベトナム人追放は1907年に締結した日仏協約、フランスの顔色を伺ったものでした。今、某大国での移民排斥を糾弾する声もありますが、かつての我が国も同様なことをしていたのです。さて、ロシアに勝利した日本、一体何処へ向かおうとしていたのか。“迷走”としか言いようがない。「三四郎」で漱石は美禰子の科白を通してこうも言っています。

(以下、「三四郎」より引用)
「迷子」
女(美禰子)は三四郎を見た儘で此一言を繰り返した。三四郎は答へなかった。
「迷子の英訳を知って入らして」
三四郎は知るとも、知らぬとも云ひ得ぬ程に、此問を予期してゐなかった。
「教へて上げませうか」
「えゝ」
「迷へる子(ストレイ・シープ)―解って?」

この小説では「ストレイ・シープ」(迷える子羊)という語が重奏低音のように空間を漂います。漱石の心眼には日本中が「迷っている」と映ったのでしょう。さらにこの作品、その結びに同じ美禰子の口でこうも語りました。

「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」。(聖書からの引用:詩篇51篇)

その邪悪さを通暁しつつ、それでも帝国主義へと堕ちてゆく母国を痛哭したのであろうか。

●40年後を予見したキリスト
 勝利に驕る日本の末路を危惧した漱石は聖書にも親しんでいたようです。その聖書は次のように記しています。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18章12節)。さて、漱石同様、40年後のイスラエルの破滅を預言したキリストの言葉をご紹介しましょう。

「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」(マタイ24章1節~2節)。

ユダヤのベツレヘムでお生まれになったイエスが30歳になり、ご自身をキリスト(油注がれた者:予言された救い主)として世に顕現された約3年半を公生涯と呼びます。AD27年~30年の期間がこれに相当します。数日後に十字架という緊迫した状況下で語られたのが上記の言葉です。「宮」というのは当時、建造中であったエルサレム神殿。ヘロデ大王が再建に着手後、既に50年が経過しており、落成までになお30年を要したという壮大な建造物です。再建中とは言え、その威容に忘我する弟子達に主は言われたのです。「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と。果たして、AD66年に勃発したユダヤ戦争、AD70年、エルサレムは落城し神殿は破壊されました。3年後のマサダ城塞陥落、AD132年のバル・コクバの乱鎮圧を経て、ユダヤ人は世界中を彷徨う民となったのです。

●迷える子羊
前述しましたが、「三四郎」で漱石が重用したキーワードが「迷へる子」でした。物語の最後で分かることですが、この言葉を発した美禰子は教会に列席する人物です。つまり漱石は、美禰子を介しながら、聖書的観点で時代を俯瞰していた、とも言えるのです。ではイエスご自身が「迷える羊」について語られた聖書の箇所を見てみましょう。

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。『あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。また、女の人が銀貨を十枚持っていても、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15章1節~10節)。

似たような譬話が二度繰り返されました。一つは「羊」、もう一つは「銀貨」ですが何れも“失われたもの”です。羊は“家”の外で牧草を食む家畜です。“家”はイスラエルという共同体を象徴する隠喩とも解釈出来ます。イエスの時代にはイスラエル共同体から追放された取税人や遊女が多くいましたが、彼らの多くはイエスの教えに傾聴しました。自らが迷い出たことを知る羊のように、彼らもまた神の御前に失われた者であると自覚していました。他方、銀貨は“家”の中で失われました。屋内には留まっていますが主人の手元からは離れたのです。銀貨は自分が失われているという自覚もなく、羊のようにメェ~と鳴くこともしません。パリサイ人、律法学者と記された宗教家がこれに該当します。彼らはイスラエルのコミュニティー(家)では指導的な立場にありましたが、形式的な宗教儀式に偏重した生活と他者を見下す高慢さは偽善に満ちており、神からは遠く離れたものでした。近くにあるはずのものが実は遠く、遠く離れたものが実は近い、という逆転が生じているのです。

●視野から消えない罪
 前述の「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」もまた聖書からの引用ですが、現代の訳では次のようになっています。

「まことに、私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります」(詩篇51篇3節)。

漱石の目に映った「罪」とは何なのでしょうか。ポーツマス条約から遡ること20年、1885年3月、『時事新報』紙上に「脱亜論」(福沢諭吉執筆と推定)が掲載されました。その名の通り“脱亜入欧”を推奨する論説です。帝国主義を掲げアジア浸蝕を押し進める欧米列強、あろうことかその仲間入りをしたい、「それは愚かだ、罪だ」と漱石は諫言したかったのでしょうか。また、それが隣国への「裏切り」であると知覚しつつ、それでも「欧米のように」という野望の芽を摘み取らなかった。目の前に、とはその故意性を指しているのでしょうか。

●今も捜し続けるキリスト
「欧米のように」。「〇〇のように」というその対象は時代や地域、立場によって異なるとしても常に私達の心に潜伏する魔物かも知れませんね。最初の人アダムの妻エバは、「神のようになる」という悪魔の囁きに捉われてしまいました。結果、彼らはエデンの園を追放され、地を彷徨う者となったのです。
さて母国に警句を発した漱石ですが、自らの人生についてはどうだったのでしょうか。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」、これは漱石自身が懊悩した心の吐露ではなかったか、そのようにも思えます。聖書に精通しつつ、最後までその周囲を彷徨い、“信じる”ことに踏み込めなかった漱石の悲劇がそこにあるのです。
 聖書を精読しながらも信じ得ない方がおられます。他方、初めて福音(救いへと招く聖書の言葉)を聴きキリストを信じる方もおられます。何故でしょうか。“捜す”のはあなたではなく神だからです。今までにも何度か書きましたがここが肝です。

「人の子(キリスト)は、失われた者を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)。

今、この文を読んで下さっておられるあなた、まさしくキリストがあなたを捜しておられることの証左ではないでしょうか。また信じたあなたには、確かなこととして次のことばが与えられています。

「あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(Ⅰペテロの手紙2章25節)。

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