にゃんこのバイブル No.15
遠くて近きもの
●彼岸
「“ぼたもち”と“おはぎ”の違いは?」。安価な食材物色に没我する僕の嗅覚を誘う広告文。「ん、お彼岸セールかいな、はて、どう違うんや」と顎を突き出す。そう、遠近メガネ愛用者のそれと判る仕草。「ぼたもち」は牡丹が咲く春、「おはぎ」は萩が咲く秋、に食べるのでそう呼ぶ、モノは全く同じ。と書いてある。「ホンマかいな」と首を傾げつつ、「よしっ、誰かに教えたろっ」と俄か“物知り博士”に変身!。ったく人間とは呆れ果てたものだ。僕だけか?。結局、“ぼたもち”は買い物かごに収まることなく次の買い手を待つことになった。そやけど何故、彼岸に“ぼたもち”や“おはぎ”を食べるんやろ。そっちの説明はあらへん。「恵方巻」と同様、売る側の事情で出来た“作り話”が100%やから、これ、間違ってないと思うけど。
「暑さ寒さも彼岸まで」と先人は言うたけど、近年の異常気象、“お花”までが「いつ咲いたらええねん」とえらい迷惑しとる。さて、キリスト者の僕が言うのも憚るが、春分、秋分の日は浄土が最も近い日、だそうだ。阿弥陀仏のおられる浄土は西方、太陽が真西に沈む春分・秋分の日は現世と浄土が最も接近する、らしい。
●十万億仏土
その浄土、“十万億仏土”という遥か彼方にあるらしい。と聞いても“何キロ”に置き換えないと想像すら出来ません。兎に角、遠すぎる距離なのですが、平安時代に広まった阿弥陀仏の救いによると死後、その極楽浄土へ直行(往生)出来るというのです。つまり、“十万億仏土”という距離は、阿弥陀仏の慈悲の大きさを示す仏教特有の口跡なのですね。他にも同様な措辞が有ります。現在、最も“悟り”に近いとされる弥勒菩薩は56億7千万年後に“仏”となってこの世に降臨する、とされています。況や弥勒菩薩にほど遠い凡人にとって“悟り”は天地の距離を遥かに超えます。ところが阿弥陀仏の慈悲は、この凡夫を一瞬に仏にする、と言うのです。謹厳に修行に勤しむ弥勒菩薩を尻目に追い越す、というのですから阿弥陀仏の慈悲たるや測りしれません。
稀代の閨秀作家、清少納言もそう信じていたのでしょうか。自分が仕えた中宮定子の夫、一条天皇から見せられた地獄の絵に戦慄しつつも、枕草子には、次のような記述が見られます。
171段
遠くて近きもの
極楽。舟の路。男女の仲。
「春はあけぼの」の冒頭で有名な枕草子ですが、随筆文学の祖でもあり、物語とは違って何処からでも切り取って読むことが出来ます。同時代の「源氏物語」よりは余程、親しみ易い作品です。その枕草子、170段では「近くて遠きもの」が列挙され、中には“思はぬ同胞、親族の仲”(好きになれない同胞や親族)、“十二月の晦日、正月のついたちのほど”など、成る程、と思えるものが記されています。そして171段では、その逆、「遠くて近いもの」が三つ挙げられました。舟の路、男女の仲はさておき、矢張り“極楽”が挙げられたことに注視したいと思います。前述のように浄土は「遠い」所にある、はずなのですが。
『阿弥陀経』では「従是過西方十万億土有世界名日極楽。其土有仏号阿弥陀」、とても遠いとしながらも『観無量寿経』では、「阿弥陀仏去此不遠」、つまり遠くない、とし、「南無阿弥陀仏」と一回念仏を唱えることによって極楽往生できる、即ち「遠くて近い」と解されてきました。
成程、どれ程遠い極楽も死後一瞬でその場所に迎えられる、と清少納言は信じたようですね。では天国(神の国)について聖書は何と教えているのでしょうか。
●神の国は何処に
「神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20~21)
“パリサイ人”というのは当時のユダヤ教の有力な一派、貴族よりも一般民衆をその支持基盤としていました。故に、同階層に人気の高いイエスとは何かにつけ摩擦を生じました。やがて彼らのイエスに対する態度や質問は敵意を孕んだものへと変わっていきました。さて、今回の質問に対するイエスの答えは「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」というものでした。何か哲学的な響きで馴染めないですね。真意に近づくにあたってこの直前の記事を見てみたいと思います。
「ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください』と言った。 イエスはこれを見て言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。『十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』それからその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。』」(ルカ17章11節~19節)
“ツァラアト”(ヘブライ語音訳)と記された病は、ユダヤ人社会で忌避された皮膚病の一種です。罹患者は隔絶された場所での暮らしを余儀なくされていました。さて、10人のツァラアト患者がイエスに出会い、そして10人が癒されました。10人に同じ癒しの奇跡が起こったのです。しかしその内の一人だけが“神をあがめるために戻って来た”のです。ではこの9人と1人を分けたのは何だったのでしょうか。先述の「神の国は、あなたがたのただ中にある」を感知し得たか否か、という違いです。全く同じ経験をしながら9人は、そこに臨在する「神の国」を認めませんでした。「ああ、良かった」で終わったのです。他方、1人は自分の身に起こった“奇跡”に神の業を体感したのです。「“神の国”は私のただ中にある」と。
さて、9人の癒された人を私達はどう思うでしょうか。「恩知らずな愚か者」と断罪するでしょうか。しかし、その判決はそのまま私達の頭上に下されることになります。何故なら、今、この文を読む貴方の目は神様から賜ったものです。今、鼻孔から吸い込まれる空気もまた同様、神様が与えて下さったものです。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5章45節)
日照も慈雨も、天の父(神様)の恵みだと聖書は語ります。私達は「生かされている」という恵みを受けながら、気付かずにいるのではないでしょうか。さらに語ります。
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17章28節)
●コペルニクス的転回
何と、私達は物事を全く逆さから見ていた、そんな「コペルニクス的転回」を宣言する聖句です。「十万億仏土」とう西方の彼方に極楽浄土はある、同様の概念を聖書の語る天国も当て嵌めているのではないでしょうか。しかし、天国を遠くに追いやっているのは私達の内にある「神などいない」という心なのです。上述の聖句はAD50年頃、アテネにやってきたキリスト伝道者パウロが発した言葉です。その直前の記事を見てみましょう。
「そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。」(使徒17章22節~28節)。
ギリシアの神々に彩られた町アテネ、八百万の神社仏閣に浸潤された日本、どこか共通点が有りますね。そんなアテネの人にパウロは語りました。「もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです」と。キリストに癒されツァラアトの一人がそうでした。彼は神の手に触れられたことを感じ取ったのです。私達も彼と同じ、神の手の中に生きて、否、生かされております。問題は、その御手を感じるか否か、私達の側にボールは有るのです。