No.04 人生のGPS|道しるべ
人生のGPS|道しるべ
冠雪も溶け、野へ山へと出かけたい季節になりました。コロナの影響もあって山を登る方々が急激に増えたそうです。行楽地や都会は人の賑わいがありますが、近隣の低山なら“賑わう”という心配も有りません。もう一つ、登山人気を支えているのはGPS機能付きソフトの普及です。このソフトの活用により初めての山でも一人で登ることが可能となりました。私のその恩恵を受けている一人ですが、具体的な機能として左記のものがスマホの画面に表示されるのです。
1、目的地
2、ルート
3、自分の居場所
最も基本的且つ重要なことですね。でもこの三要素は山登りに限ったことではありません。日々のショッピングや観光旅行、ビジネスでの出張等、様々な場面で私達は無意識にこの三要素を脳裏に描いて歩を進めているのではないでしょうか。ところが私達の「人生」という最も大切な旅程に於いては全てが曖昧です。
1、目的地が分からない。
「人生の目的地」って問われても困りますね。そもそも出生の場所、時期、性別、全て自分で選んだ訳ではありません。気付いたら自分は人間でした。言わば大海に漂流する難船のような状況下で人生のスタートを切ったようなものです。逆の見方をすれば、人生とは、自分で得たものではなく、与えられたもの、と言えます。「生命」も「人生」も与えられたものです。だとすれば、与えて下さった方に尋ねなければ「本当の目的地」は見えてこないのです。
2、ルートが分からない。
それでも分からないまま漂流していると航路が見えて来たような気になります。能力に応じて「エリートコース」「準エリートコース」といったコンベアに載せられ、教育や技能といった付加価値を身に付けます。付加価値が高ければそれだけ高額で取引され社会にも貢献出来ます。けれども消費されてしまえば付加価値の高低に関係なく「廃棄物」として捨てられてしまいます。高給であっても幸せと呼べる家庭を築けず「何処で踏み間違えたのか」と自分の人生を回顧する方も多くおられます。「努力して『狭い門』を潜ってきたつもりだ」と。『狭い門』は聖書由来の言葉ですが少々都合良く解釈されているようです。子供達を鼓舞して難関大学や資格試験に挑め、といった意味で用いられますが、真逆ですね。それらは誰もがその価値を認める、という意味からすれば寧ろ『広い門』なのかも知れません。結果として入れる人は少ないと言うだけです。聖書で言う『狭い門』は誰でも入ることが出来ます。でもその門に気付く人が少ないのです。
3、自分の居場所が分からない。
十九世紀の画家、ポール・ゴーギャンは「我々は何処から来たのか 我々は何者か 我々は何処へ行くのか」というタイトルの絵を描きました。印象派以後、それまでの型に嵌った絵画から解放され自分なりの表現を確立したかに見えたゴーギャンも自身の人生に付いては道を見出せなかったようですね。
神は最初の人アダムに語り掛けました「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節)と。この言葉は自分の居場所が分からない私達全員に対する神の呼び掛けでも有ります。そして迷った私達にイエス様は次のように語っておられます。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことは出来ません」(ヨハネ14章6節)
何処に迷いこんだとしてもそこに道は示されています。主イエス様に振り返るならばそこが再出発の道となります。目的地は貴方に生命と人生を与えて下さった父、すなわち神様です。この小冊子は「道しるべ」です。是非、ご自身の人生の道しるべとなさって下さい。