No.05 天国のドレスコード|道しるべ
天国のドレスコード|道しるべ
2024年4月、二人の閨秀が帰らぬ人となりました。桂由美さん、そしてフジコ・ヘミングさん。一方はウエディングドレスで挙式に千紫万紅の瑞々しい花彩を降らせたデザイナー。他方、聴力を失いながらも太い指先が叩き出す入魂のピアノ演奏で音符に血流を注いだピアニスト。共に1930年代生まれ、戦前から戦後へ、新時代の揺籃期という蛹に育まれながら、その芸術スタイルは好対照を為しています。
「お嫁さんが自分の妹だと思ってやっている。一生に一度だから失敗は許されない」と一切の妥協を排除する完璧主義、他方「間違えたっていいじゃない、機械じゃないんだから」と五線紙という殻を脱ぎ捨てて素材を顕在させた遅咲きの異才。還暦を経て脚光を浴びたステージ、袖を通したのはバーンスタインとの共演で飾るはずだった華やかなドレスではなく、漸く辿り着いた「身丈に合った衣裳」でした。「失敗は許されない」と「間違えたっていいじゃない」。対極を為す双璧の主張。失敗と同居している私はヘミングさんの言葉に親近感を覚えますが、皆さんは如何でしょうか。
さて聖書には「失敗を赦された息子」の譬話が有ります。父親の元を飛び出して弊衣蓬髪で帰ってきた「放蕩息子」。途中からの引用ですが次のように記されています。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いて一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう』(ルカの福音書15章20~23節)。
「故郷に錦を飾る」、そんな淡い夢を描いて息子は旅立ち、そして夢も服も破れて戻って来ました。虚飾のボロ着を脱いだ時、彼は初めて自分の為に仕立てられた「オーダーメイド」を着ました。父が準備した「一番良い衣」です。イエス様は別の箇所でこのようにも語られました。
「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。」(マタイ6章29~30節)
ソロモンは紀元前960年頃のイスラエルの王、歴史上同国が最も栄えた時代に統治した人物です。「王様なのに草木で結った服を纏っていたのか、随分質素な清貧の人」とは早合点、逆です。歴代随一の華美な盛装をした王の代表としてイエス様は彼を取り上げたのです。そしてそれでもその装いは野の草にさえ及ばない、と。さて、私達は自分の審美眼を改めねばなりませんね。
そう、野原に目を転じてみましょう。自然は発見の宝庫です。今年は初めてセリバオウレンを肉眼で捉えました。その小ささ、花弁の形状、色彩、芳香に「ああ、神の指の業だ!」と感動しました。極小で見付けるのが困難な故に感激も一入だったのです。けれども考えてみれば日々の散歩道にも「神の作品」は溢れています。観賞に耐えない燃料用の野花であっても、「神様が装ったもの」。どれ程華美であっても人間が紡ぎ出したものは及びません。
「主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」(イザヤ61章10節)
どのように煌びやかな衣装も天国に迎えられるドレスコードとはなりません。神様が準備して下さった義の衣が必要です。それはイエス様を信じる者に与えられます。さらに有難いことにこの衣裳代は既に「支払い済」です。十字架で流された血の代価です。是非、この衣裳を纏う方となって下さい。