一志温泉とこのめの里近くで聖書の福音を伝えるキリスト(教会)集会=津市
第17回 朝顔
そろそろ梅雨入りやな、「朝顔の種でも」と何年か前に思ったことがある。結局、何もせんかった。何故か?、そう、支柱が要るらしい。……
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第16回 迷える子羊
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第1回 光源氏の暗闇
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●朝顔
そろそろ梅雨入りやな、「朝顔の種でも」と何年か前に思ったことがある。結局、何もせんかった。何故か?、そう、支柱が要るらしい。ただそれだけ、まあ邪魔くさがりにはそれがネックとなる。
そういや源氏物語には「朝顔」と呼ばれる女性が出て来る。作者“紫式部”の名前からしてそうなのだが、物語に登場する女性は全て綽名なのだ。“朧月夜”なんて優雅な名もあるし“空蝉”って、まあ蝉の抜け殻なんだけど、本人が知ったら驚くでしょうね。“浮舟”、これはもう紫式部の人生哲学を集大成したような名であり女性ですね。ところがこの“朝顔”、ちょっと違和感。源氏がその花弁を文に添えたことからこの名が付けられたのだが、この女性、私達が知る儚げな花、“朝顔”とイメージが合わない。支柱無しには生きていけない朝顔と違って、自分の意志を貫く強さを持つ。源氏の執拗な誘い「No」と言える女性なのです。調べて納得、源氏物語の“朝顔”というのは朝に咲く花のことで、実際には桔梗だったと推定されています。そうだったのか、源氏物語。
●支柱
カバーに“朝顔”が描かれた本(小説)が有ります。江戸時代の貧乏蕎麦屋、銀平を描いた「侠」(松下隆一著)がそれです。
「たたきの陽だまりに人影が映った。客かと思ったが、その人影は中に入ろうとはしない。銀平は目を上げて戸口に立つ者を見た。女だった。女の顔を見た時、強烈な既視感にとらわれて彼は思わず立ち上がった」。(「侠」より)
その女は名をおようと言い、遠い昔、銀平と暮らした女性だった。祝言も挙げ、貧しいながらも幸せな日々、と銀平は思っていた。ところがある日突然、おようは何も告げずに家を出た。一体、何があったのか、銀平にはそれが分からない。そのおようが今、目の前に立っている。「帰って来てくれたのか」、それは銀平すら気付かない自身が永らく封殺してきた生きる縁(よすが)だった。しかし、彼女が来たのは無心の為だった。そしてその無心は回数を重ねた。銀平はおようと一緒だった頃を思い出す。銀平がまだ博徒だった時のことだ。
「花が好きな女だった。鉢植えの撫子や紫陽花の花を長屋の軒下に置いて、ときどき飽きずに眺めているおようを見かけた。中でも朝顔が好きだった。夏の朝早く、夜通しで博奕をやった銀平が長屋に帰ってくると、おようは家の前でしゃがんで朝顔の花を見つめていた。鉢に挿した細竹に蔓が幾重にも巻つき、ところどころに濃い紫色の花を咲かせている。銀平もおようの後ろに立ってそれを眺めた。
『朝顔って、こうやって巻きつくものがないと生きてゆけないんだろうねえ……』
おようは銀平を振り向きもせずにそんなことを言った。
『まあそうだろうよ』
と、その時はさしたる興味もなく答えた。頭がぼやけていた。まだ賭場にいるような心持で、早くひと眠りしたかった。
『でもさ、いったん巻きつくと枯れたって離れないんだよ』」(「侠」より)
やがて銀平はふと、こう思う。「おようは、朝顔に自分を重ねていたのかも知れない。今、おようは巻きつく支柱を求めているんじゃないのか、もう一度、おようと寄りを戻せたらどうだろう」。そう夢想しつつ、結局何も言い出せずおようを帰してしまうのだった。今度会えたら、おようが好きだった朝顔を渡そう、と銀平は朝顔売りからまだ蕾も付いていないのを一鉢買った。しかし、それからというもの、中々おようは姿を現さない。思い余って自分から会いに行こうと朝顔の鉢を手に立ち上がる。僅かな手掛かりを元に漸く辿り着いたおようの暮らす貧民窟。しかし大家の口から出たのは思いもよらぬ言葉だった。
「『は? ああ、あんたまだ知らないんだね。おようは死んだよ』
『……死んだ?』
『ひと月ほど前にね、荷車に轢かれて、首をこうだ』
惣吉(大家)は手刀をつくって喉仏に当てた。
『…………』
背中を冷たい汗が流れ落ちてゆく。
銀平は衝撃で声が出ず、惣吉の顔を見守るよりほかなかった。」(「侠」より)
結局、おようの「支柱」となってやれなかった無念さに項垂れつつ、漸くあることに気付く。「そう、この俺もまた時々訪ねてくるおようを「支柱」に生きてきたんだ」。
●人を支える支柱
“人”という漢字が表すように、私達は支え合って、そしてそれなしには生きて行けない存在なのかも知れません。しかし寄り掛かった途端、“共倒れ”ではいけませんね。聖書には、私達が寄り掛かるべき“支柱”(杖)について教えています。今回は「杖」について記されている箇所から考えてみたいと思います。
1.臨終の杖
「信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福し、また自分の杖の上に寄りかかって礼拝しました」(へブル11章22節)。
ヤコブとは神様から「イスラエル」という新しい名を貰った人、そう、この人物こそが今のイスラエル民族の祖となりました。知恵と狡猾さに勝り、それが災禍となって故郷を追われますが、逃避先のハラン(現:トルコ共和国)で多くの家族と富を得ます。しかし、臨終にあって彼を支えたのは巨万の富ではなく、一本の“杖”でした。死が迫ってきた時、一体何が人を支えるのでしょうか。知恵も富も、いえ、家族ですら彼を力付けることは叶わないのです。“杖”という語に、聖書は特別な意味を持たせたようです。
2.人生を導く杖
「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖
それが私の慰めです。(詩篇23篇4節)
「主は私の羊飼い」という冒頭で始まるこの詩は聖書を知る多くの人々に愛されています。自身を羊、神様を羊飼いに擬えて紡がれた牧歌的な詩はとても馴染みやすいものです。
「むち」は誤解されやすい訳語かも知れません。多くの英訳聖書ではRod(こん棒)という語が充てられています。旧約聖書の他の箇所、例えばミカ書7章14節では同じヘブライ語が“杖”と訳されています。
「どうか、あなたの杖で、あなたの民を、あなたのゆずりの群れを牧してください」
この“むち(こん棒、杖)”は羊飼いが携行していた武器で、羊ではなく野獣を追い払うために使用されたもののようです。
もう一つ、「杖」と訳された語(英訳:Staff)は、長く先端が鉤状になった羊飼専用のものでした。群れから迷い出ないように、正しく導くために使われました。朝顔が支柱を辿って蔓を延ばすように、羊は羊飼いの杖に寄り添って歩みます。野獣から守り、牧草へと導くためにこれら二つの道具が必要だったのです。
3.復活を示す杖
「すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花をさかせて、アーモンドの実を結んでいた」(民数17章8節)
杖が芽を出す?、と聞いて「何処かで聞いたような」と思われる方もいらっしゃるでしょうか。そう、弘法大師の逆杖の竹。熊本県阿蘇小国の杖立温泉には空海が立てた杖、そこから枝や葉が生えたとされる伝説の竹があります。恐らくは聖書の記事と関係があるのでは、と思ってしまいます。
さて、“杖”とは木材から切削されて作られます。つまり死んだ木です。そこから芽を出す、とは命の蘇生を想起させます。アロンの杖が芽を出した、これは紀元前15世紀の出来事ですが、約1500年後のキリストの復活を匂わす予型でもありました。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。』そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。』」(マタイ28章1~10節)。
死んだ棒切れである杖が芽を出す、そのように死んだはずのイエスが息を吹き返した、復活したと聖書は記しています。
「人は死ではなく、死の向こうにあるものを恐れる」と矢作直樹氏(東京大学教授)はその著書「人はしなない」に記しました。その通りだと思います。見えない彼岸、人はそこに待ち受けている審判を潜在的に恐れているのです。しかし、イエス・キリストはご自身の復活を通して、死後の蘇りを証明して下さいました。そのキリストはこうも語られました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
(ヨハネ11章25節)。
●永遠に至る神の愛
おようは言いました。
「でもさ、いったん巻きつくと枯れたって離れないんだよ」
そう、枯れても離れない、聖書はこうも語っています。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8章38,39節)。
もうすぐ夏ですね。街の何処かで朝顔の花を見たら、是非、今回の話を思い出して下さい。既にあなたの傍らに支柱は立てられています。ただ、巻き付けば良いのです。