にゃんこのバイブル No.18
泥中の蓮
●蓮
「こらアカンッ」。久々の帰省、昔よく行った古刹で紫陽花でも、と思って調べてみた。開花時期は的中、見事に咲き乱れて“千紫万紅”なのだが、入場料も千紫万紅(どんな値段や?、営業妨害になるので伏せます)、貧民は来てもらわんでも!、言うことか。まあ、紫陽花だけなら近所の庭にも咲いとるけど、その周囲や情趣、全て含めての“鑑賞”となると金が掛かるということらしい。さて、と迷っているうちに“見頃”も逃げていきそう。「しゃあない、今年は蓮を待つことにしようか」。
そういや、星野富弘さんというクリスチャン詩人がこんな詩を遺していた。

黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜきれいに咲けるのだろう
私は
大ぜいの人の
愛の中にいて
なぜみにくいことばかり
考えるのだろう
●泥中蓮華
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言われますね。これは、中国、北宋時代の官僚、周敦頤(しゅうとんい:1017~1073)が著した「愛蓮説」の一節「予独愛蓮之出淤泥而不染(われ独り蓮の淤泥より出でて染まらざるを愛す)」に由来します。周敦頤は儒学にも精通した碩学の官僚でしたが、罹病の為、致仕。その後は、廬山蓮花峰の麓に書堂を構え、そこで修養に専念。蓮池に囲まれた清涼な空間、そこでこの「愛蓮説」が紡がれました。
<「愛蓮説」より抜粋(邦訳)>
水陸の草木の花には愛すべきものが甚だ多く、晋の陶淵明は菊を愛した。唐代以降、世間の人は甚だ牡丹を愛してきた。世間の人々の嗜好とは違うのかもしれないが、私は蓮の泥から出て泥に染まらず、清らかなさざ波にあらわれてなまめかしくなく、茎は中が通り外は真っ直ぐで、蔓もなく枝もなく、遠くまで清らかな香りを漂わせ、高くすらりと清らかに立ち、ただ遠くから眺めて、穢すことのできない君子のように高潔なさまを。私は思う。
●応援ソング
東日本大震災を機に路上に立ち、オリジナル曲の熱唱を通して自らのメッセージを発信する「鈴音」さんの楽曲に「泥中の花」が有ります。
<泥中の花>
「じゃあ あの時どうすればよかったんだろう
許しを請いながら生き存えた 今日の命を
朱に交われば赤になる 君を染めて
連れて行った What can I do
情けない夜は ぬかるんだ心 宙に蹴飛ばしてさ
しがみついてたもの 手放してしまおう I want to end all
じゃあ あの時どうすればよかったんだろう
傷だらけの天使は綺麗な色を纏って
振りかざされた 正義は 君を染めて
突き落としてく What should I do
情けない夜は ぬかるんだ心 宙に蹴飛ばしてさ
しがみついてたもの 手放してしまおう I want to end all
今日のために 明日を捨てないで 泥中の蓮であれ
息をすることは 誰もが簡単に できる訳じゃないさ
夜毎 涙の海に 溺れ続けても 朝は来る
その手につかめる 幸せの数は 誰にもわからない
最悪な日々の その先で 待ってる」
なんだか、迫ってくる詩ですね。
今を生きることの難しさに自らも喘ぎながら、なお「泥中の蓮であれ」と叫び続ける鈴音さんの息遣いが伝わってきます。所謂、“応援ソング”と呼ばれるこのような歌たちは昔から多くの人々を力付けてきました。古くは「ボクサー」(ポール・サイモン)、僕がネクタイを締め通勤電車に揺られていた頃は街中に「ファイト」(中島みゆき)が流れていました。こうした歌が何故、傷付いた人の心を掴むのだろうか、考えてみました。結論、それは多分、“共感”かも知れない、と。つまり発信者自身もまた、その渦中に藻掻いている。ゴールからの声援じゃなく、伴走してくれている。その親近感こそ、人が求めているものなのかも知れません。しかし残念なことに、歌は明日への一歩を踏むカンフル剤となっても心の内側から湧き出る泉とはなりませんね。
●汚泥まみれの社会
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」と前述しましたが、そんな“蓮”のような人物、果たして存在するのでしょうか。これぞっ、と思う傑物が現れても悉く失望落胆に終わるのが現実ですね(色んな政治家たちの顔が瞼裏に映し出されますが)。しかし私達は聖書の中に決して失望させない御方を見ることが出来るのです。今回も福音書の中からイエス・キリストという御方を紹介致しましょう。
「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。』イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネ8章1節~12節)
さて、上記は聖書の中でもよく知られた箇所、「ナザレのイエス」等、キリストの生涯を描いた映画でも欠かせないハイライトシーンの一つです。ところがこの最高潮の見せ場がスクリーンに描き出すのは、私達人間の“罪”という汚泥なのです。
●顕された罪
浮気をした女性が捕らえられて来ました。あろうことか公衆の面前に晒されたのです。夫がいながら別の男性との関係を持つ、これは間違いなく“罪”ですね。しかも“現行犯”ですから弁解の余地も有りません。
●隠れた罪
今、ある芸能人が世間の耳目を集めていますね。突然の番組降板、グループ解散等を何の理由も告げずに公表したのですから無理も有りません。これを巡って虚実混淆の怪情報も飛び交っているようです。まあ永年に亘り応援してきたファンとしては「ああ、そうですか」という訳にもいかないのでしょうが、何故かファンでも何でも無かった“世間”が“そうですか”と引き下がらない。「一体、何があったんだ!」と“芸能界の闇を暴く正義”を盾に関係者を糾弾。“ちょっと違和感”ですよね。正義面を装った単なる覗き見漢?。なんて野郎だっ!、いえいえ、これは案外、私達のことかも知れませんよ。「暴露本」や「週刊〇〇」が何故売れるのか、人の罪を暴きたい、知りたい、というのも歪んだ“罪”の一つなのですね。そしてこれが厄介なのは“正義”という盾に潜んでいる点にあります。
上記の女性を連れて来た「律法学者、パリサイ人」がそうです。彼らの目的はイエス・キリストを罠に掛けるためでした。罪を犯した女性への“死刑の是非”を詰問したのです。「石を投げよ」と言えば、ユダヤ人の掟に適いますが、民衆からの人気は失墜します。他方、「石を投げるな」と答えれば、「モーセの教えを愚弄する輩だ」と吹聴されます。何れにしてもイエス・キリストを窮地に追い込める、ただそれだけのために彼らは、この女性を利用したのです。これは偶発的な捕縛ではありません。浮気役の男との共謀により、この女性を嵌めたのです。相手方の男が不在なのがその何よりの証拠です。イエス・キリストを貶めるためには手段を択ばない、ここに彼らの醜悪さ、汚泥に塗れた罪の悪臭が不可視的空間を罪色に染めているのです。
●赦された罪
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。このイエスの放った一言が剣が峰の窮地を激変させました。断罪者の資格を問われたのです。「罪のない者が」と迫られた時、一人ひとりとその場に背を向けました。最後にイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」と。これは“水に流す”ということではありません。他者と違ってイエスは、「石を投げる資格が無い」のではなく、「罪に定めない」ことを選ばれたのです。換言するなら、「あなたへの宣告はわたしが引き受ける」ことを示唆されたのです。聖なる神は罪を放置、容認される方では決してありません。その罪はご自身の御子キリストに負わせました。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5章21節)。
●先導者キリスト
私達は伴走者に親近感を覚える者ですね。しかしキリストは私達にとって伴走者であると同時に先導者でもあります。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8章12節)。
私達自身は「泥中の蓮」のようにはなれないかも知れません。しかし、“光”である御方が導いて下さる、というのです。その時、私達は光を遮る“闇”から顔を覗かせて“光”を見据えることが出来るのです。そうです。私達は汚泥の沼から抜け出すことが出来るのです。
そして「世の光」として私達を先導して下さるキリストの言葉は、常に補給が必要なカンフル剤とは違い、私達の心の底から溢れ出る泉となって力を与えて下さるのです。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章38節)。
世の多くの方は疲れています。心に響く“応援ソング”に渇いています。もし、あなたがそうであるなら是非、聖書をお読み下さい。生ける神の御言葉こそ尽きることのない力の源です。